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古典にすべてが書かれている。

2020.05.16 更新 ツイート

リア充にうざく絡む引きこもり男のエネルギーはコロナ禍でとりわけ輝く坂口孝則

今回取り上げる古典:『地下室の手記』(ドストエフスキー)

地下に閉じこもった究極の引きこもり主人公

 

現在、世界中の人たちが家に引きこもらざるをえない状況にある。もちろん、日常へ戻る兆しは見えつつあるものの、地域によってはまだ外出もままならない。在宅が増えることによりDV(家庭内暴力)が話題になったり、喧嘩が絶えずコロナ禍離婚なる言葉が出たりした。そして朝から酒を飲む人が増えたり、コロナ鬱状態になったり、これまでと違う生活様式は、人びとに精神面でも影響を及ぼしている。

ところで、究極の引きこもりの形態として、主人公の告白から地下に閉じこもるまでのエピソードを描いた古典がある。ドストエフスキーの『地下室の手記』(光文社古典新訳文庫)だ。同作は、『カラマーゾフの兄弟』にいたるドストエフスキーの重要作として刻まれている。ただ、ここではあくまで『地下室の手記』のみをもとに考えていきたい。

この小説は二部にわかれている。地下に閉じこもった男性主人公の吐露が延々と書かれる「I 地下室」と、若き主人公が役所に勤めていたころの自意識過剰なエピソードが満載の「II ぼた雪に寄せて」だ。

ドストエフスキーの研究者には怒られるだろうが、簡単に要約すれば、「妄想ばかりを膨らますイタい男性が、リア充に絡んでいって、見事に惨敗する物語」となる。主人公は40歳で他者を避けるようになって20年が経っている。遠い親戚が遺産を残してくれたため、役所も辞めている。ただし「地下生活四十年なんだ」という記述もあり、ほんとうに地下に何年くらいこもっているかは重要ではない。さらに遺産がほんとうにあるのか妄想なのかも重要ではない。地下とは自分の殻、あるいは自意識の象徴だ。

この小説はII から俄然と面白くなる。I は読者によっては退屈かもしれない。自由意志、幸福、正気、というものについて、支離滅裂ぶりが面白いのだが、読むのが辛いかもしれない。そのなかでも、こういった記述は目を引く。

<歯痛にだってたしかに快楽はあるのさ(中略)このままさらに三ヶ月も痛み続けるだろう(中略)後は自分の慰めのために己が身を殴りつけるか、さもなければいやというほど拳骨で壁をぶっ叩くしかない(中略)まさにこうした意識や屈辱の中にこそ官能的な喜びがあるのである>

つまりイッちゃっている人だ。しかし、単なるイッちゃっている人ではない。

<質問――あいつは何者だ? 答え――怠け者だ。自分についてこんなことが聞けたら、どんなに愉快だろう>

あくまで「聞けたら」である。無自覚にイッているわけではなく、かつ、自分の人生そのものを全体的に肯定できているわけではない。自分の現状は自分にとって正しいのだと、自分自身に言い聞かせようとする、どこまでもルサンチマン(怨恨)の態度である。

<理性はたしかに素晴らしいものさ。それは議論の余地がない。だが、理性はしょせん、理性に過ぎないわけで、人間の理性的側面にだけ応えるものだ。そこへ行くと欲求は全生活、(中略)むしゃくしゃと頭を掻きむしることまで、ありとあらゆるものをひっくるめた人間の全生活の現れなのだ>

理屈や理性だけではない、人間的な意思。それはときに、愚行の形をとって現れる場合もある。そして、その愚かな自分をすべてひっくるめて肯定しようとするが、それは無残なほど上手くいかない。

自意識過剰のイタいエピソードの数々

繰り返しになるが、本書の面白さはエピソードが満載の「II ぼた雪に寄せて」にある。ここで描かれた自意識は太宰治『人間失格』に描かれた狡猾かつ理知的な人間像ではない。ただただ虚しいエピソードが書かれる。

たとえば、私が興味をそそられたのは、次の記述だ。

(1) 居酒屋のビリヤード台でのこと
主人公がビリヤード室でおろおろしていると、将校が両肩をつかみ移動させ、その場を通り過ぎた。たったこれだけのことなのに、主人公は<奴が俺を物みたいに移動させたうえに、まったくこちらの存在には気づかぬふうであったことはなんとしても赦しがたかった>とまで書く。
そのうえで、わざわざ将校を尾行し、どのような人物かを調査し、さらには、街中でわざと何回もすれ違おうとしている。また、この将校について暴露小説まで書いて、出版社に投稿するのだ。

さらには、なんとか将校とすれ違いざまに、こちらがどいて道を開けぬよう訓練までする。成功すると<俺たちは、肩と肩とがしっかりとぶつかり合っていた! 俺は、一センチたりとも譲らず、まったく対等にすれ違ったのだ!>と興奮している。

(2) 昔の知人のパーティーに参加したときのこと
主人公は、昔の知人のパーティーに参加することになる。知人と書いたが、どうも、先方は主人公のことを好きではないらしい。主人公も、自分が仲間外れになるのが心外で無理やり参加したのだ。<大事なのは、一番に着いてしまわないことだ、さもないと、いかにも嬉しくてたまらないように思われてしまうからな、と俺は思った>。なんという自意識過剰!

主人公は泥酔して、暴言を吐いて、まわりの知人たちから敬遠されてしまう。それでもなお、主人公は<君たちは俺が帰ったら嬉しいんだろう。絶対にそうはさせんぞ。意地でも最後まで居座って飲んでやる>と自分を納得させる弁明を自らに投げかける。そのくせに同時に、知人たちから嫌われても、なんと知人たちとの和解を望み続けるのだ。

(3) リーザとの出会い
主人公は、ある場面で、美しく若い女性リーザと出会う。リーザはあるところで住み込みで働いていた。主人公は、その女性を気に入るものの、なんと女性に説教をはじめる。この内容が酷い。

<一年後には、君の値打ちは確実に下がる(中略)そして、ここから、もっと程度の低いどこか別の家へ移ることになるんだ。(中略)君たちは、ここでは情夫を持ってもいいそうだね。君たちは馬鹿だから、そんなことで他愛なく慰められた気でいるんだろうが、そんなのは単なる悪ふざけだ。欺瞞だ。(中略)今すぐにでも君は呼ばれて行ってしまうことがわかっていながら、どうして君を愛したりするものか>。

さんざん話した後に、主人公は帰宅しようとする。そのとき、リーザは、なんと先日ある男性からもらった恋文をわざと主人公に見せるのだ。主人公の語る恋愛論は書籍だけを通じた実体験のないもの。しかし、リーザはたしかにリアルな男性から恋文をもらっている。この残酷さ。

なお、このリーザとは、ある意味、よりバッドエンドな結末を迎えるのだが、それは本書を読んでいただきたいと思う。

『地下室の手記』とSNSに溢れる攻撃性は似ている

ところで、この小説を単に、コミュ障な主人公が吐き出す、虚しいドタバタ劇と思うのはたやすい。たしかに、その読み方でもじゅうぶんに、哀しさと憐れみを感じることができる。もし、主人公のように殻に閉じこもったまま、自意識の塊と格闘せざるをえない人がいたら、きっと感情移入してしまうだろう。

しかし、それ以上にも示唆的だ。たとえば、狂気という定義はどうだろう。主人公は、自分のような人間だけがまともで、他人のほうがまともではない、とする。しかし、きっと現実は逆なのだ。狂人、あるいは狂気という定義上、一人だけがまともで大勢の他者が間違っているのはありえない。究極的な意味では、その人だけがまともな可能性があるかもしれない。でも、定義上は、その一人だけが狂人、そして狂気なのだ。そして、彼らを救うサービスとして、独白や私小説が存在しうるのだと教えてくれる。

これはきっと現代社会でも同じだろう。昔とちがって、いま完全に外部を遮断した“地下室”はありえない。ネットのなかにはSNSがある。とはいえ構図はおなじだ。ネットには、自分の正当性を訴える言説であふれている。そして、なぜ自分が語る真実がわからないのかと、世間の無理解について呆れている。しかし、定義上は、その人たちこそが狂人であり狂気なのだ。と同時に、その投稿だけが、その人をギリギリのところで救っている。

そして、もう一つ私にとって興味深い点がある。

この主人公が、手記を書いて、そして世間に吐露したいと考えた点だ。この手記にはルサンチマンが引き起こす力への意志が感じられる。単に現状へ不満を抱くだけで塞ぎ込んでいたら、それは弱者なのだ。現状へのルサンチマンが異常な力を生み、そして異常な手記を書かせた。その意味で著者は誰よりも強者といえるのではあるまいか。

たとえば、音楽に失恋ソングがある。終わった恋愛なのに、相手に燃やし続ける情念。一般的に失恋ソングは、弱い側の告白と考えられる。しかし、ここには、他者を憎み、いつかは自分が幸せになってやるという、異常な力を見出すべきではないだろうか!

別の疑問でいえば、なぜ『地下室の手記』の主人公は、これほどエネルギッシュでいられるのだろう。その疑問は、ほとんど羨望に近い。誰かを否定し続けるのは、むなしくも、パワーが要る。そもそもその力がなかったら、主人公はとっくの昔に自殺していたはずだ。きっと、ニーチェも同様の力によって突き動かされていたのだろう。それは自己を極限まで痛めつける行為かもしれない。しかし、その自己矛盾をいとわない他者攻撃によってしか生きられない人たちがいる。

この小説が人びとを惹きつけてきたのは、上から目線で、惨めな主人公を眺めたいからではない。むしろ心理的には逆で、このような状況になってもなお、世間と他者を攻め続けられる力への憧憬。まさに、前述のとおり、力への意志へ支えられているのだ。そして、なぜだか、無意味にも他者を否定し続ける根暗な主人公に、私たちは自分ができない力を感じて魅了されてしまう。この小説が、“なぜだか”読まれ続けてきた理由はそこにあるのではないだろうか。

コロナ禍で、大衆の心をつかもうとするとき、『地下室の手記』が示唆してくれるものは少なくない、と私は思う。

 

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坂口孝則

調達・購買コンサルタント/未来調達研究所株式会社取締役/講演家。
2001年、大阪大学経済学部卒業後、電機メーカー、自動車メーカーに勤務。原価企画、調達・購買、資材部門に従業。
製造業を中心としたコンサルティングを行う。
著書に『牛丼一杯の儲けは9円』『営業と詐欺のあいだ』『1円家電のカラクリ 0円iPhoneの正体』『仕事の速い人は150字で資料を作り3分でプレゼンする。』(小社刊)などがある。

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