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古典にすべてが書かれている。

2020.08.14 更新 ツイート

人生が短いのではない。人生を短くする時間の使い方があるのだ――『人生の短さについて』坂口孝則

今回取り上げる古典:『人生の短さについて』(セネカ)

新型コロナウィルス下の桜で感じた人生のもろさ

 

2020年3月29日。日本中で新型コロナウィルスの話題でもちきりだった。多くの人々は見えないウィルスに恐怖していた。その日、東京では桜の満開と同時に大雪が降った。私は部屋の中から、将来の不安からか、何もする気になれず、ずっと桜の散る様と雪を見ていた。雪のせいで、散りゆく桜が何十倍になったように感じられた。
 

ほとんど多くの人は花見に出かけられず、長期間にわたって家にこもっていた。人生で、あれほど動かなかった時期も珍しく、内省的な思考をあれこれと重ねていた人も多いに違いない。

桜がなければ、桜のあとに咲く白木蓮はもっと注目された花になっていたかもしれない。桜があまりに可憐で魅力的だったものだから、私は散りゆく桜に自分自身を重ねてしまった。それは、咲いたと思ってもあっけなく消えてしまうものだな、と、あらためて人生のもろさを再認識していたからでもあるし、回顧のような感情にも近かった。

「これまでやってきたことは正しかったんだろうか」という思いだ。

 

オンライン会議で「組織に埋もれた自分」を発見する

そこからZoomやTeamsで会議をすることが増えた。テレビ会議に慣れなかった私たちも必要に迫られて、大半の人々が使用するようになった。しばらく経つと、ある方が面白いことを教えてくれた。

テレビ会議で話すとき、話し手は自分自身を見ている、という。他の参加者に話しかけているように見えて、あれは自分を眺めているんです、と。他者の発言を聞くときもおなじで、自分の顔を見ています、と。

さらに不思議な感覚にとらわれるらしい。それまでの人生で、さほど自分を客観的に見続ける経験がなかった。そうすると、多人数で会議をしていると、当たり前だが、「あー俺って、組織のなかにいる一人に過ぎないんだなって」思うらしい。客観的な画像として、他に埋没する状態が“見える化”される。

また、テレビ会議では、パワーポイントなどの資料を共有できる。ただし、リアルの会議と違うのは、参加者が画面とにらめっこするのに疲れる点だ。そのため、多くの組織では、会議が短縮された。資料は要点だけで、短めでいい。

そうなると、以前に作成していた大作の資料はなんだったんだと疑問がわく。そして、その多くは、ある特定の個人(課長や部長)を満足させるために、あれこれと細かな内容をひねくり回していただけだとわかる。この例のように、組織内外の誰かを納得させるために、必要以上の時間が費やされていたケースは珍しくない。

私は、テレビ会議における「自分を見つめる」常態化と、資料の簡素化が、どのように思想的な変化をもたらすかは、まだ整理できていない。しかし、新型コロナウィルスは、一瞬かもしれないが、仕事人たちに立ち止まらせて考えるきっかけをくれたように思う。

誰かのために時間を使うと自分の人生の時間は残らない

セネカ『人生の短さについて』(光文社古典新訳文庫)がある。1世紀の古代ローマで、セネカがパウリヌスに向けた文章とされる。このパウリヌスとは、国家の食料供給を管理する重職だったとされる。

セネカはパウリヌスにたいし、仕事を再考し、閑暇を勧める。忙しい仕事に従業するだけでは、人生が短くなってしまう、という。人生が短いのではない。人生を短くする時間の使い方があるのだ。

これだけ昔に書かれたにもかかわらず、問題提起は現代に通じるところがある。人間は2000年以上も、同じ問題にぶつかり、さらに考えてきたのかもしれない。

<ひとは、自分の土地が他人に占拠されることを許さない。土地の境界線をめぐるいさかいが起これば、それがいかに些細なものであっても、石や武器を手にして争おうとする。それなのに、ひとは、自分の人生の中に他人が侵入してきても、気にもしない>

ここからセネカは、他人にばかり自分の時間を使ってしまう、いわゆる“他人の時間的奴隷”になっている態度を批判する。私は以前、「自分の自動車を傷つけられたら激怒するのに、自分の心を傷つけられても激怒しない人が多いのはなぜだろう」と書いたことがある。なるほど、それは時間であっても同じなのだ。

<多忙な人たちは、みな惨めな状態にある。その中でもとりわけ惨めなのは、他人のためにあくせく苦労している連中だ。彼らは、他人が眠るのにあわせて眠り、他人が歩くのにあわせて歩く。だれを好いてだれを嫌うという、なによりも自由であるはずの事柄さえ、他人の言いなりにならなければならない>

古典から、安易な人生訓を引き出すのは、もっとも避けねばならない。ただ、これをビジネスパーソンに当てはめてみると、上司やクライアントの設定した締め切りにむけて自分の生活をあわせ、ときには睡眠時間を削りもする。誰かのお供をして、さらに、組織内の派閥争いや、つまらない、「あいつがどうだ、こいつはどうだ」といった評価に右往左往している。

セネカは、他人のために使っていないといえる時間を想像しろ、という。つねに誰かのために時間を費やしているとすれば、自分の人生はほとんど残っていないことになる

セネカの無理と無茶

セネカはこう続ける。ある人物が、それまで、他人との時間関係のなかで生活していたら、仕事を引退してからも楽しめるはずはない。なぜなら、評価軸がすべて他人となっており、自分のなかで確固とした支えがないからだ。

他人を押しのける野心に燃える人たちは、もしかすると、権力の座に上り詰めるかもしれない。しかし、その野心はさらに大きな野心しかうまず、また別の願いをしなければならなくなる。そして、不安は消えずに、不幸な終わりを迎える。

では、どうすればいいか。<真の閑暇は、過去の哲人に学び、英知を求める生活の中にある>としている。くだらない雑学は推薦しないとし、数々の哲人の名前をあげ、過去の学問英知を摂取し、過去の偉人の系譜につながるのが最善なのであると。

セネカは<あれほど数多くの偉大な人物が、すべての邪魔ものを捨て去り、財産も地位も快楽も投げうって、生きることを知るというただひとつの目的を、人生の終わりまで追求し続けた>という。

冒頭で私はコロナ禍における仕事観の変容をあげた。

これまた容易に人生訓を引き出すべきではないが、なるほど、他人へ時間を使うことで自らの人生を歩めなくなるとは、コロナ禍を待つまでもなく、すでに1世紀にセネカが指摘していたのだ。

しかし、それにしても、<財産も地位も快楽も投げうって><真の閑暇は、過去の哲人に学び、英知を求める生活の中にある>といわれても、実際の生活がある以上は、そんなに現状を変えられないかもしれない。

実際に、セネカはローマ帝国の政治に翻弄された人物だった。権力との確執や、さらには左遷なども経験し、人間関係のなかで人生を左右された。この『人生の短さについて』セネカがパウリヌスに向けた文章だと紹介した。学術的な研究をあえて無視していうならば、私はパウリヌスとはセネカ自身であると思う。いや、私には、そうとしか読めない。

もし、<財産も地位も快楽も投げうって><真の閑暇は、過去の哲人に学び、英知を求める生活の中にある>のであれば、自分自身が実践すれば良いだけで、他者を批判することはない。その時間の使い方こそが、真の閑暇から離れるのではないか? いや、そうではないのだ。自分自身に、まだ実現せぬ理想像をぶつけた。

他人に時間を費やすことに無自覚な人生と、自覚的な人生。その二つがあるとすると、少なくとも後者であれば、よりよい生が拓く可能性がある。生活のための仕事と、自らの人生のバランスをとって、うまい妥協点を見つける可能性もだいぶ高まるだろう。

古典はすべてを激変させることはない。しかし、このような小さな気づきこそが重なり合って、大きな違いをもたらす。古典を読む楽しみがあるとすれば、私はその点しか信じることができない。

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坂口孝則

調達・購買コンサルタント/未来調達研究所株式会社取締役/講演家。
2001年、大阪大学経済学部卒業後、電機メーカー、自動車メーカーに勤務。原価企画、調達・購買、資材部門に従業。
製造業を中心としたコンサルティングを行う。
著書に『牛丼一杯の儲けは9円』『営業と詐欺のあいだ』『1円家電のカラクリ 0円iPhoneの正体』『仕事の速い人は150字で資料を作り3分でプレゼンする。』(小社刊)などがある。

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