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古典にすべてが書かれている。

2019.09.03 更新 ツイート

人気古典『エセー』で人生の救いとビジネスのヒントを見つける坂口孝則

◎今回取り上げる古典:『エセー』(モンテーニュ)

イタリアの教会で感じた大きな力を信じること

個人的な話だが、先日、イタリアに取材旅行にいってきた。音楽ビジネスの歴史を書籍にまとめようと思っており、クラシック音楽とオペラの源流であるイタリアに決めた。現在では、バッハ、ベートーベン、モーツァルトと、巨匠はみなドイツが輩出したと思われている。しかし、実際は18世紀には音楽の中心はイタリアであり、逆にドイツは下と思われていた。

 

そこで、私は、イタリアの教会や聖堂にいって、そこで音楽が奏でられる瞬間に立ち寄ってきた。日本には、さほど教会はないし、聖堂もない。さらには、そこで催される音楽会に参加した経験のある日本人もほとんどいないに違いない。

イタリアの聖堂で音が多層的に響くのを聴いたひとであれば、なるほどクラシック音楽は、ここで必然的に誕生したのだと感じるに違いない。田んぼや野原が広がる日本とはちがい、音と音とが会話し合う環境がそこにはある。

聖堂や教会では、円形の天井、円形の柱が、あらゆるところに散りばめられている。円とは、はじまりも、おわりもない。つまり、意味するのは神。やわらかな曲線は母なる大地を示し、さらに、女性としてのマリアの美をも指している。そこで、楽器を弾くことの意味。

私がイタリアの教会をまわっていたときのことだ。

ジーンズにポロシャツを来てリュックを背負った祈祷者が、クリストの絵のまえでひざまずいていた。彼は滂沱の涙を流しながら、数珠の青い石をぐるぐるとまわし続けていた。その動作を何度も繰り返し、終わりがない。私はその行為が無意味だからこそ、なんらかの意味があるように感じられた。

無意味という意味。それは神への帰依を意味する。

よくある光景なのかもしれない。しかし、クリスト、神、なにか大きな力を信じ、それがたしかに生活の支えになっている人たちがいるのだ、と私はあらためて再認識するにいたった。

『エセー』はただただ崇拝するものではない

前回からモンテーニュ『エセー』をもとに、あえて誤読しながら、現代へのヒントを得ようとしている。モンテーニュは、イタリアとおなじく、ヨーロッパ圏にあるフランスの出身で、その著作は随筆=エッセーの語源ともなった。

この『エセー』が当時の読書人に面白いと思われたポイントは、そのざっくばらんさ、にある。当時、聖書は神の代弁であり、さらに、日本人的にいえば正座して拝読する対象だった。そこには真実と規律と、進むべき道が書かれており、真面に読む姿勢が求められた。それにたいして、『エセー』は、気楽に読め、かつ、人生訓として機能している。

モンテーニュは神を信じながらも、「まあ、人生はいろいろあるわな。でも、こう考えたらいいんちゃいまっか」と、関西弁で気楽に話しかけているように思える。

大学受験生が読む漢文や古文は、さも高尚なことが書いてあるかのように、最初は思う。しかし、現代文訳を読めば、それが実にたわいもない、日常の出来事や恋愛を切り取っているだけだとわかる。私がイタリアで観たオペラもそうだった。けっきょくは不倫などの色恋沙汰を歌っているにすぎない。しかも私は、それが低俗だという意味ではなく、そういうものだ、といっているにすぎない。

だからモンテーニュ『エセー』も、正しい接し方は、高尚な名著というよりも、昔のおじさまがつづったブログ、というていどに考えたほうがよい。

神は偉大だ。そこにヨーロッパのゆらぎはない。しかし、いやだからこそ、その偉大さゆえに、反対のゆるさも求められる。

人生が最期で決まるのはほんとうか

モンテーニュが絶対的存在ではない、とわかったとき、この『エセー』は、とたんに「学ぶもの」から「思考の相手」として役立つ“たたき台”に変化する。

たとえば、第十九章は「われわれの幸福は死後でなければ判断してはならぬこと」とされている。

<運命はしばしば、われわれが長い月日を費やして築き上げた建物を一瞬のうちに覆えすことができることを示すために、われわれの生涯の最後の日をじっと狙っていると思われることがある。(『エセー(一)』P145)>

<私は多くの人が死によって自分の一生の評判をよくしたり、悪くしたりするのを見た。(中略)本当に、ある人の最後における名誉と光栄を見ずにその人を評価するならば、その人から多くのものを奪うことになるだろう。(『エセー(一)』P147)>

ここには宗教的な最後の審判を重視する言説が踊っている。日本人もよくいうではないか。「幸せだったかどうかなんて、死ぬまでわからない」。しかし、これは正しいのだろうか。

刹那主義を、利今主義(いまだけの利益を求める考え方)と呼ぼう。すると、「最期の幸福が良いという考え方」は、利後主義とも呼べるのではないだろうか。クリスト教では、頬を打たれたら、違う頬を出せと伝える。しかし、なぜ、違う頬を出さないくらいの強さをもてないのだろうか。さらには、殴り返すくらいの強さをもてないのだろうか。

現世を耐え忍びながら、天上に召されことを祈る。だったら、なぜ現世でも強い生を過ごしながら、さらに最期まで駆け抜けようと考えることはできないのだろうか。たまたま不幸な最期があっても、それはひとそれぞれだ、と思えず、最期からそのひとの人生をまるごと解釈してしまうほどに弱いのだろうか。

いかに他者からひどく思われようとも、勘違いであってすら幸福だと思う道程を生きればいいのではないか。

幸か不幸かは自分しだい

実際に、モンテーニュは、こうもいっている。「幸、不幸の味は大部分、われわれの考え方によること」(第十四章)。私は、ここでモンテーニュを批判的にとりあげたいのではない。むしろ逆で、このように、ときに矛盾を内包すること自体が魅力であるように感じられる。

それはクリスト教の魅力にも通じるのではないだろうか。人間と人生の複雑さは、とても単純な考え方で統一できるものではない。ときには教えと教えが矛盾している場合もある。

信者は、その矛盾に悩む。そして真理を考える。日曜日には教会で説教を聞く。これほどまでに書籍やメディアが発展した現代であっても、聖書で書かれたことを明瞭には理解できず、何重にもベールに隠された真実を知るためには、死ぬまで教会に通い続けなければならない。

現代のビジネス書が軽薄で“わかりやすさ”だけが求められているのだとしたら、これら宗教書はその真逆だろう。“わかりにくい”がゆえに、読みつがれ、さらに中毒者が居続けるという逆説。モンテーニュ『エセー』もわかりにくさゆえに、読みつがれている。真理がそこにあるはずで、探さねばならぬ、という読者の態度に支えられているように思う。

モンテーニュは、先に紹介した第十四章「幸、不幸の味は大部分、われわれの考え方によること」で、こういっている。

<私は、不安で、不如意で、いそがしい金持ちのほうがただの貧乏人よりも惨めであると思う(P113)>

しかし、それこそ、自分自身の考え方によるのではないだろうか。

<運命はわれわれに幸福も不幸も与えない。ただその素材と種子を提供するだけだ。それを、それよりも強いわれわれの心が好きなように変えたり、用いたりする。われわれの心がそれを幸福にもする唯一の原因であり、支配者なのである。>

と書きつつも、モンテーニュは神の教えに背くような幸福は認めないし、さらに自らが愛する哲学に背くような幸福は受け入れない。

なるほど、学校や会社が、生徒や社員に「自由な発言を」と勧めるとき、けっして学校や会社の存在意義自体を批判する発言は認めない。それは当然であって、それがその場合の「自由」の限界だからだ。

この『エセー』を読むと、そのクリスト教文化に嘔吐を感じたニーチェが誕生した理由もわかる。ニーチェは、クリスト教の欺瞞を感じ、そして、人間の強さを追求した哲学者だった。しかし『エセー』のような古典を読む喜びは、そのテキストだけではなく、その周囲を勝手に想像(あるいは誤解)できる喜びにある。

そしてここで、冒頭の、滂沱の涙を流していた祈祷者の話に戻る。神は矛盾していても、古典も矛盾していても、それらが真実を語っているはずだとただただ信じているものは迷いがない。悩んでも、すがる場所がある。

ニーチェは強くなれ、といった。しかし、人間はそれほど強くはあり続けられない。単に、強くなれといった哲学者と、矛盾と非合理性のなかで、すがる場所と、救いを与えた宗教。それは、どちらが大衆に訴求するかは明確だった。

これをビジネスに展開すると面白いだろう。正解を与えて突き放すのか、あるいは、間違っていても消費者に救いと安堵を与えるのか。もし、古典から誤読してもなお、ヒントを引き出す試みが許されるのだとしたら、このような観点しか、もはや私は信じることができない。

正しい解釈にこだわらない読書会

9月5日にモンテーニュ『エセー』をとりあげ読書会を実施する。書籍をもってきていただければ大丈夫で、事前にお読みいただく必要はない。

・岩波文庫版「一」のみ持参
・電子書籍ではなく、紙版がふさわしい
・読んでいなくても参加可能
・可能なら気になった章を読む
・さらに可能なら「一」全編を読む

当日は意見交換をしながら、大胆に誤読してビジネス等のヒントを解説していきたい。

少しでもご興味あるかたのご参加を心からお待ちします。
 

<坂口孝則さんと古典を読む読書会概要>

《日程・図書》

第3回 9月5日(木)19時30分~21時30分
【常にウケるコンテンツを学ぶ】
モンテーニュ『エセー』(1/岩波文庫)

*各自で課題図書をご購入のうえ、当日ご持参ください。

《参加費》
2,500円

詳細・お申込みは、幻冬舎大学のお知らせページをご覧ください。

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坂口孝則

調達・購買コンサルタント/未来調達研究所株式会社取締役/講演家。
2001年、大阪大学経済学部卒業後、電機メーカー、自動車メーカーに勤務。原価企画、調達・購買、資材部門に従業。
製造業を中心としたコンサルティングを行う。
著書に『牛丼一杯の儲けは9円』『営業と詐欺のあいだ』『1円家電のカラクリ 0円iPhoneの正体』『仕事の速い人は150字で資料を作り3分でプレゼンする。』(小社刊)などがある。

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