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古典にすべてが書かれている。

2019.11.02 更新 ツイート

愛と道徳は私たちをなぜ制約するのか?ニーチェ「この人を見よ」をもとに考える坂口孝則

◎今回取り上げる古典:『この人を見よ』(フリードリヒ・ニーチェ)

「傷ついた」と吐露することが最大の攻撃となる時代

突然だが、職場や日常生活で言い争いになったとき、相手を止めるだけではなく深く自省させる発言はなんだろうか。
私はコンサルタントという職業で、さまざまなひとたちと話したり、議論したりする。こういうことをいいたくはないが、なかには非礼なひともいるし、信じられない発言をするひともいる。

そういったひとたちに、論理的に反駁するのも有効かもしれない。でも、もっと有効なのは「私は、あなたの発言を聞いて、大変に深く傷ついた」とか、「そんなことをいわれるとは、理屈ぬきで、あまりにも哀しい気持ちです」ということだ。

つまり、正しさを主張するのではなく、さらに、相手に倫理を求めるのでもなく、ただただ、自分自身の内心を語ればいい。相手を窮地に追い込もうと思えば、「あなたから、そこまで言われたので、自殺しようと思います」といって、哀しみの顔のまま下を向けばいい。それによって、相手に反省を促すことができるだろう。

ここには、きわめて面白い逆説がある。

言い争いとは、自分の主張を相手に届け、正しさを納得してもらうことに、勝利の要因があると思われている。しかし、そんな合理的な内容では、誰も負けを認めない。いっぽうで、誰もが議論をやめようとするのは、その相手がことさらに傷ついたと強調するときだ。ここに現代の奇妙さがある。

攻撃的に意見をいうひとにたいして、怒りの感情をもつことがある。あるいはイライラすることがある。しかし、「私は深く傷つきました」といってくるひとには、なかなか二の句が継げない。むしろ自分自身がイヤになるほどだ。眠れなくなる場合もある。
自分が深く傷つくことが、もっとも相手を傷つけることになる。

 

殴った相手を愛する手法で世界を席巻したキリスト教

私のこの文章を読んでいるひとも多くは他者の内面を気にするだろう。なぜ、このようなことがあるのだろうか。相手が傷つこうが、究極的には自分に関係がないではないか。自分が傷つかないのが良いのではないか。なぜ相手が傷つくことが、自分の大きな痛みになるのだろうか。

ニーチェだけがそこにクリスト教のしかけた構造を嗅ぎ取っていた。これは大発見だったと私は思う。つまり、クリスト教は、もともと自分が傷つくことでしか、強い者たちに対応する術がなかったのだ。

そこでクリスト教は、愛という概念を用いた。弱くはかないクリスト教たちは、殴られても、相手を愛するという捨て身の価値転覆を狙ったのだ。そしてそれを繰り返すうちに、殴ってきた相手は、憐れむべき、哀しみの対象と成り下がった。

これが、クリスト教が世界に実現させた、おそるべき新たな価値観だった。そして私たちはその価値観、道徳、愛という玉条のうえに住んでいるから、その地下に根付く“なにか”に気づくことすらできなくなった。

「相手の内面を傷つけてしまえば、自分の内面が傷つくのは当たり前だ」としか思えないひとは、近代的な人間といえるだろう。良くも悪くも、ニーチェが指摘した価値観のなかにのみいるひとなのだから。

なぜクリスト教は、そのように闘わざるをえなかったのか。それは前述のとおり、それしか道が存在しなかったからだ。価値観を変えて、勝負に挑むしかありえなかった。そして神とともに、道徳や愛にがんじがらめにされながら生きるしかなくなった。

私は「生きるしかなくなった」と書いたが、それは普通の生活をしたいのであれば、むしろ疑ってはいけない教義として存在している。しかし、ニーチェはなぜ、道徳や愛のようなものに制約されるべきなのかと根源まで疑い続けた。

聖者よりも道化になりたい。ニーチェの異常なほどの熱意

ここまできて、そしてニーチェのこの文章を読むと面白い。前回の当連載とおなじく、『この人を見よ』(光文社古典新訳文庫)からの引用となる。この『この人を見よ』はニーチェが最後に自分の作品を振り返った記念碑的な作品であり、これまでの自作を紹介しつつ、自分の哲学を総じて論じた作品だ。

私の使命は、人類の最高の自覚の瞬間を準備することである。大いなる午後を準備することである。大いなる午後に人類は、後ろを見て、前を見る。大いなる午後に人類は、偶然と聖職者の支配から抜け出して、「なぜ?」「なんのために?」という問いを、はじめて全体としてなげかける。――この使命は、次のことが洞察されたとき必然的に生まれてくる。つまり、人類が正しい道を歩くのは自分の力によるのではない、ということ。人類の統治は神によってなどではない、ということ。むしろ、まさに人類にとってもっとも神聖な価値概念があったからこそ、否定の本能が、腐敗の本能が、デカダンスの本能が力をつけて、誘惑してきたのだ。だから、道徳の価値の由来を問うということは、私にとっては第一級の問いなのである。(P140、P141)

その道徳の価値が瀰漫してしまった社会では、聖人が必要とされる。しかし、その聖人にしても、ニーチェにとっては忌むべき対象でしかない。前回の連載でも似たところを引用した。

私は聖者になりたくない。むしろ道化になりたい。……もしかしたら私は道化なのかもしれない。……しかし、それにもかかわらず、いやむしろ、それにもかかわらずではなく――というのも、これまでのところ聖者ほど嘘で固まった代物はなかったのだから、――私がしゃべっているのは真理である。――だが私の真理は恐ろしい。――というのもこれまでは嘘が真理と呼ばれていたのだから。(P202)

「私は傷ついた」と吐露する戦術をニーチェに学ぶ

なぜニーチェだけが、このようなクリスト教のしかけた道徳と愛の価値転覆に気づいたのだろうか。自伝などから、私が勝手に推測するに、ニーチェが誰よりも道徳的で、かつ愛を欲していたからだと思う。

誰かが「私は強い」というとき、その声が大きいほどに、うさんくささがつきまとう。「強い」ならば、なぜそれを強調する必要があるのだろうか。力は秘めていればいいではないか。

そして、「私は道徳を超える」と繰り返しいうとき、なぜ、そんなことを繰り返すべきかについても、あやうさがつきまとう。道徳心などもたずに、殺人を繰り返す罪人や、サイコパスの人物は、あえてそのようなことを述べることもない。「私は道徳を超える」と叫ぶ人は、自分の心に残滓としてある道徳心と決別できないだけではないか。

キリスト教の道徳を自分たちが権力を手にするための手段だと察知したのだ。……そして実際、これが私の見抜いたことだが、教師、人類の指導者、神学者たちは、みんなそろってデカダンでもあったのだ。だから、すべての価値を生に敵対するものへと価値転換したのだ。だから、道徳とは、……これは道徳の定義なのだが、道徳とは、――生に復讐しようという底意をもち――しかもそれに成功したデカダンたちの、特異体質なのだ。(P216)

動物として、そして強者として“生”を謳歌できないものが道徳を作り出す。そして世界の価値を転覆しようとしてきた。

しかし、ニーチェも同様ではないだろうか。クリスト教文化がすべてを覆うなか、そこで生きることのできなかったニーチェは復讐しようという底意をもっていないだろうか。

私はここから話を意図的に曲解したい。

たとえば、このニーチェをビジネスに応用しようとしたらどうだろうか。私たちは、もはや道徳と愛の空間にのみ生きている。その空間のなかでは、自分が傷つくことで勝利する状態が続いている。たとえば、これはビジネス交渉時にも活用できるだろうし、悪用もできるかもしれない。

現在、ネットでは罵詈雑言があふれている。とくに有名人が批判にさらされやすい。異常なほどの有名人への悪口を見る。有名人もムキになって反論しやすいのがネットの特徴で、その反論ゆえに、有名人から反論をもらった素人は盛り上がってさらに批判を繰り返す。それは批判者が匿名ゆえだ。

しかし、ニーチェの議論を知っていれば、それを逆説的に使用し、有名人が「深く傷ついた」と吐露する戦術もありうるだろう。そうしたほうが、批判者からの罵詈雑言を止められる可能性があるかもしれない。

少なくとも弱者と強者、そして価値の転覆構造については、いまだにニーチェからしか私たちは学び得ないのではないだろうか。ニーチェはビジネス雑誌に偉人として取り上げられるような人物ではなく、危険な人間としての位置づけがふさわしい。私たちの陰部も明部も、ニーチェを通してしか再整理できないはずなのだ。

私が古典を読む喜びがあるとしたら、そのような曲解をできるがゆえだ。

正しい解釈にこだわらない読書会

11月7日にニーチェ『この人を見よ』をとりあげ読書会を実施する。書籍をもってきていただければ大丈夫で、事前にお読みいただく必要はない。

・光文社古典新訳文庫版『この人を見よ』を持参
・電子書籍ではなく、紙版がふさわしい
・読んでいなくても参加可能
・可能なら気になった章を読む
・さらに可能なら「一」全編を読む

当日は意見交換をしながら、大胆に誤読してビジネス等のヒントを解説していきたい。
少しでもご興味あるかたのご参加を心からお待ちします。

<坂口孝則さんと古典を読む読書会概要>

《日程・図書》

11月7日(木)19時30分~21時30分
【ビジネスの“突破口”を学ぶ】
ニーチェ『この人を見よ』(光文社古典新訳文庫)

*各自で課題図書をご購入のうえ、当日ご持参ください。

《参加費》
2,500円(税抜)

詳細・お申込みは、幻冬舎大学のお知らせページをご覧ください。

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坂口孝則

調達・購買コンサルタント/未来調達研究所株式会社取締役/講演家。
2001年、大阪大学経済学部卒業後、電機メーカー、自動車メーカーに勤務。原価企画、調達・購買、資材部門に従業。
製造業を中心としたコンサルティングを行う。
著書に『牛丼一杯の儲けは9円』『営業と詐欺のあいだ』『1円家電のカラクリ 0円iPhoneの正体』『仕事の速い人は150字で資料を作り3分でプレゼンする。』(小社刊)などがある。

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