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古典にすべてが書かれている。

2019.03.06 更新

教養あるライバルを短時間で追い抜く方法坂口孝則

■今回取り上げる古典:「読書について」(ショウペンハウエル)


一朝一夕では追いつけない詩と絵画と音楽の審美眼

数年前、人間関係があまりに上手くいかなくて逃げ出したくなっていたころ、たまたまヨーロッパに出張する機会があった。日本を離れ、傷心の旅。私としては、すこしの気休めになるはずだった。実際に、日本から離れ、些末なことを忘れようとしていた。

ドイツで仕事の用事が終わってから、なかば観光で立ち寄ったスイスで衝撃を受けた。ルター派が宗教改革の舞台にしたという教会。そこでは、楽器のささやかな音があちこちで圧倒的な重なりで響鳴していた。この驚きを文字にするのは難しい。日本で聴けばおそらく、単なるバイオリンの音であったものが、あまりに圧倒的で重圧的な振動として私に迫ってきた。

次に複数のバイオリンの音は、重なり合い、そして、抵抗できない迫力をもって私に語りかけてきた。そこで私が逆説的に、はじめて「和音」の意味がわかった気がした。日本は田畑で雅楽を興ずる。私たちはそのDNAが刷り込まれている。音楽は単音であり、ただただ野原に流れていく。しかし、スイスの教会で訊いた音楽は、その瞬間に音と音が重なりあうだけではなく、少し前に弾かれた音の残響も相手にしながら、全体のなかで共存していた。

日本で重厚なハーモニーを実感することは難しい。しかし、ヨーロッパのように教会が身近であれば、勝手に音の重なり合いの意味を知る。そこに私は絶望的な乖離を覚えた。ヨーロッパの、そして、上流が身につけている基礎教養。それは詩と絵画と音楽の審美眼だ。言葉は悪いが、アジアの成金が一朝一夕に身につけられるものではない。

 

 

彼らは音楽を、膨大な文脈のなかで楽しむ。バロックから古典派の音楽を知り、そして、著名演奏家の解釈を学び、演奏による音のちがいを体験している。そのうえで、コンサートに出向き、会場の響きや演奏の細かな違いに気づき、体のなかに音楽を通過させる。

そこには、限られたものしか楽しめない娯楽が存在している。

文化の文脈を知る者だけが得る享楽

物質的ではない情報。そのうち、商品として販売されるものは、いわゆるコンテンツと呼ばれる。私は職業柄、このコンテンツを、いかに大衆に届けるかを考える。一つの商品に多くの切り口を考えて、どの伝え方がもっとも、「わかりやすいか」「人目を引くか」「キャッチーか」などを検討していく。

しかし、そのコンテンツを味わってもらったとき、たしかに、受け取った側のレベルによってその味わいの深さに違いがでてくる。たとえば、書籍のなかに何かのパロディを書いているとする。すると、元ネタを知っているひとは深く楽しめる。しかし、そもそも前提知識がないひとはなんのことかわからない。すくなくとも、楽しさは半減する。

先日、テレビで放映された「ラ・ラ・ランド」も、古典映画のオマージュと知っていれば、構成や物語の細かなところに監督の工夫があると気づくだろう。また、多くの映画ではシェイクスピア作品が、ポップミュージックではビートルズのリフが、英文学では聖書が、形を変えて登場する。

こういうと、優れたコンテンツは事前知識なしに全員が楽しめるものではなければいけない、と反論するひとがいる。究極的にはそうかもしれない。そういう考え方もあると思う。しかし、実際には、文化は過去からの供物を愛撫することで新たなものを生み出していく。だから、やはり、基礎的な知識をもっているひとが楽しめる量は、つねに多いにちがいない。

それにしても、これは驚くべきことではないだろうか。同じものを見たり聴いたり読んだりしても、ひとによって感動の度合いが異なるとは。もし人生を楽しむ、ということが、一つひとつの対象に心躍らせることだとしたら、何よりも重要なのは、この基礎的な知識ということになる。

古くから生き残っているものを選ぶという戦略

たとえば、30歳の男性が二人いたとする。一人は音楽のことを何もしらない。もうひとりは、子どものころから、多様な音楽を聴きながら育ってきた。前者が30歳になったころ、後者が音楽の膨大な知識をもとに他者と会話を楽しんでいる姿を見た。ビジネスパーソン同士の会話でも、ひょんなことから趣味に話が及び、そして意気投合することはよくある。それが人間関係の構築につながることだってあるだろう。

前者は後者を嫉妬するかもしれない。ただ、そこには30年という絶望的な差がある。ここの音楽を、映画に置き換えても、文学に置き換えても、またはそれぞれの専門分野に置き換えてもいい。

この差はどうしようもないのだろうか。

前者は自分も音楽の知識を身につけようと、レコードショップや、あるいは音楽アプリをインストールしてみた。しかし、あまりに無数に新譜は出ているし、過去にさかのぼっても、いったい何を聴いていいのかわからない。映画も、文学も、ジャンルがなんであってもおなじだろう。

しかし、私たちに答えは用意されている。なぜかわからないが、古くから生き残っているものを選べばいい。そして信じればいい。たとえば、書店で棚を思い出せば、「古くからある書籍のほうが、これからも棚にあり続ける」と理解するのはたやすい。新しい奇をてらった書籍よりも古典のほうが、はるかにこれからも生き残る可能性が高い。

宇宙物理学者のJ・リチャード・ゴットは、旧ソ連を訪れた1977年に、おそらく社会主義は歴史が浅いので崩壊するのではないかと述べている。たった60歳の社会主義国の将来を信じるよりも、それまで続いてきた通常国家の存続を信じるほうがはるかに理にかなっていたのだ(『時間旅行者のための基礎知識』草思社)。

天才の作品、偉大な精神を読むべき

私は馬鹿者だから、こんなに簡単な事実を、回り道をしてやっと知るにいたった。しかし、こんなことは、やはり古典に書いてある。

ショウペンハウエル『読書について』は、現代にも通じる示唆に多く富む。もともとこれは、読書だけではなく、自分の頭で考えることを勧めている。それと同時に、自分が触れ合うコンテンツについて書かれた内容は、辛辣で、しかし、真実を衝いている。

<文学も日常生活と同じである。どこに向かっても、ただちに、どうしようのない人間のくずに行きあたる。彼らはいたるところに群をなして住んでいて、何にでも寄りたかり、すべてを汚す。夏のはえのような連中である。だから悪書の数には限りがなく、雑草のように文学の世界に生い茂っている。>

<悪書は、読者の金と時間と注意力を奪い取るのである。この貴重なものは、本来高貴な目的のために書かれた良書に向けてしかるべき>

だとする。

ショウペンハウエルは、皮肉っぽく、これから重要になるのは、読まずにすます技術だとした。つまり、世間が騒いでいようが、皮相的な流行を追いかけることの無意味さを説いている。

<当事者たちは大声に叫びちらす。それは毎年数千の作品を市場に送り出す。しかしニ、三年たてば、人は問う、いったいあの作品はどこへ行ったか、あれほど早くから大声でもてはやされていたというのに、その名声はどこへ去ったのかと。>

ショウペンハウエルの皮肉は止まらず、

<国民の健康管理にあたる当局は、目を保護するため、出版業者に注意を促すべきであろう。すなわち活字の細かさについて、一定の限度を設け、違反者を処罰すべきである。>

とまで冗談交じりに書いている。

代わりに、

<比類なく卓越した精神の持ち主、すなわちあらゆる時代、あらゆる民族の生んだ天才の作品だけを熟読すべきである。>

としている。ショウペンハウエルは、古典を勧めている。この古典とは、ギリシア、ローマ時代を意味する。この幾千年の歳月にも傷つけられなかった作品を生み出した精神の偉大さを強調している。

古典の重要さに気づかない人たち

もっともショウペンハウエルはやや教養主義すぎるきらいがある。しかし、私はもっと戦略的にこの『読書について』から教訓を引き出してみたい。それは、教養をもっているライバルを短時間で超すためには古典を読むしかない、という教訓だ。

私は、音楽を例にして30年という絶望的な差異がある二人の男性を比喩にした。きっと、前者に追いつくのは難しい。しかし、その方法があるのだとしたら、それはきっと、古典を聴き続ける手法にあるに違いない、なぜかわからないが、昔から人びとが愛してやまない音楽=古典を聴き続ける、という手法。そのうちに、きっと、ずっと音楽を聴き続けてきた人よりも深い音楽教養を得るだろう。それは冒頭に記した、ヨーロッパの基礎教養を得るにも近づくに違いない。

そして、ここまで書いて、もう一つの絶望に気づいた。古典が必要なのは、古典を読んだことのないマスなのだと思う。しかし、マスになればなるほど、古典の重要さに気づかない。古典の重要さに気づいて読むのは、もともとのインテリ層にすぎない。ここに絶望的な懸隔がある。しかし、教養の重要さを信じてやまない私のような人間は、それを喧伝せざるを得ない。ここにもまた、現代の皮肉がある。

それにしても――。

たしかに、ショウペンハウエルのいうような読書が役立つことがある。それは何より、固有名詞をほめるというよりも、読書の体系そのものを語る場合だ。ショウペンハウエルは、中途半端な学業を許さず、つねに全身全霊をかけた学業を勧める。そして、古典を勧める。私は、これを、古臭い態度かもしれないと思っていた。しかし、私はこれが正しい態度であろうと信念をもつにいたった。

ここから、私は『読書について』とともに、古典の素晴らしさを語りたいと思う。もしそれが、たとえ、できすぎた過去だとしても。

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坂口孝則

調達・購買コンサルタント/未来調達研究所株式会社取締役/講演家。
2001年、大阪大学経済学部卒業後、電機メーカー、自動車メーカーに勤務。原価企画、調達・購買、資材部門に従業。
製造業を中心としたコンサルティングを行う。
著書に『牛丼一杯の儲けは9円』『営業と詐欺のあいだ』『1円家電のカラクリ 0円iPhoneの正体』『仕事の速い人は150字で資料を作り3分でプレゼンする。』(小社刊)などがある。

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