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古典にすべてが書かれている。

2019.06.05 更新

『戦争論』(クラウゼヴィッツ)はビジネス書として読むから役に立つ坂口孝則

◎今回取り上げる古典:『戦争論』(クラウゼヴィッツ)
 

愚者と賢者に境目はない

私は人文系の書籍を多く読む。雑誌も読むよう心がけている。あるとき、高名な学者が、某国で流行していた疫病について語っていた。その知識は異常なほど広大で、疫病や医学研究史や、パンデミック時の群集心理にも触れていた。その学者が、けっきょくのところ、私たちとしては何に注意すべきか、という質問に答えていた。

「手洗いとか、うがいとかが重要ですよね」

きっと笑うべきところではないだろうが、笑ってしまった。なぜならば、それなら無学な私もやっている。これは知識を揶揄したいわけでは、けっしてない。私も知識の欠片を売って生活している。

しかし、と私は思ったのだ。愚者も賢者も、行動レベルでは変わりがないのか、と。

 

まだ私が20代の若いころ、ある方のご厚意で、ビジネススクールに無料でご招待いただいた。といっても、何日間かの短期間のもので、企業のケーススタディを読み、参加者でディスカッションするものだった。業種の違うひとたちが、それぞれの企業がなぜ成功したのか、なぜ失敗したのかを討議する。宿題として用意した、おのおのの分析結果を見せ合う。

参加者は、課長になる直前の方々で、私よりもだいぶ年齢は高かった。グループで資料をまとめ、それを講師が講評する。その講師も、どこかのMBAを取得していて、経営の経験もある。その解説の見事さに、若い私はたいへん感心した記憶がある。

しかし、同時に強烈な違和感をいだいた。その企業の栄枯盛衰を語る分析そのものが、再現性がないようにしか思えなかったからだ。これはよくいわれるように「すべての経営分析は後付けであり、空しい」と批判したいわけではない。ヒット商品のヒット要因が後付けであるとおり、すべての分析は後付けであらざるをえない。後付けであっても、人間は、なんらかの意味がないと生きていけないから、それはやむをえない。

私の違和感は、その分析が見事であればあるほど、個別性が高いと思った点にあった。たとえば、「あるタイミングで新商品を開発しなかった」という倒産理由があったとする。なるほど、その企業の倒産理由はそうだったかもしれない。しかし、そのタイミングで新商品を開発したとしても、その後、違う理由で倒産したかもしれない。考えるに、倒産の理由など無数にあるに違いない。

とすれば、その100を覚えるとは、つまりはすべてを防ぐことにほかならない。成功要因もそうかもしれない。しかし、成功要因は100よりもっと多く、1000もしれないし、1万かもしれない。それを覚えることはできない。とすれば、良さそうなものをやってみるだけだ。その良さそうなものが、緻密な精査によるものか、直観かによるかのちがいはあるかもしれない。

ただ、ここで私は、ふたたび思い出さざるを得ない。愚者も賢者も、行動レベルでは変わりがないかもしれない、と。

読みあぐねている人に伝えたい、クラウゼヴィッツ『戦争論』からのヒント

不朽の名作といわれ、そして、おおくのひとが実際に手にとったことはない書にクラウゼヴィッツ『戦争論』がある。タイトルの通り、戦争を語ったものであり、その本質をえぐったものとして200年間ほど読みつがれている。

私はクラウゼヴィッツ『戦争論』を、発想源として使う。『戦争論』の衒学的な解釈だとか、有名な研究者が説く正しい読み方などは、私にとって興味がない。過去の偉人が生涯をかけて綴ったテキストを誤読してでも、実社会に活かすヒントを得ようとする。

クラウゼヴィッツは1780年にプロイセン国に生まれた。彼はナポレオン以降の近代的な戦争を分析し、その体系を『戦争論』にまとめた。その量は莫大なものとなっており、かつ、未完となっている。戦争と政治についての内容については書き直す必要性を感じていたようで、実際に第一篇は書き直されている。しかし彼は過程で鬼籍のひととなった。

そのような理由もあって、『戦争論』を読むと、つながりが不明だったり、推敲前ゆえか散文すぎたりして理解できないところもある。率直にいえば矛盾している箇所もある。また、それが、後年に『戦争論』を読む論者たちが、そこに都合の良い教訓のみを引き出したり、自分の思考と違う箇所のみを批判対象とできたりした。

ただ、いくつかのポイントはある。なによりも『戦争論』は戦争を政治のプロセスとしてとらえたことにある。戦争とは三位一体であり、その要素で構成されている。

<第一に、戦争の本質は原始的な強力行為にあり、この強力行為は、殆んど盲目的な自然的本能とさえ言えるほどの憎悪と敵意を伴っている、ということである。第二に、戦争は確からしさと偶然の糾う(あざなう)博戯であり、またこのような性質が戦争を将師の自由な心的活動たらしめる、ということである。第三に、戦争は政治の道具であるという従属的性質を帯びるものであるが、しかしまたかかる性質によって戦争は、もっぱら打算を事とする知力の仕事になる、ということである(岩波文庫版上巻 P62)>

こうクラウゼヴィッツは説明し、第一が国民に帰するとした。戦争の燃え上がる激情が国民の心に内在し戦争に賛成しているか。次の第二は軍に帰するもので、偶然を伴う領域で勇敢に知性をもって戦えるか。そして第三は政府の本務とし、政治的目的の定立を説いた。

『戦争論』で知るべきは「防御」「集中」「天才」

クラウゼヴィッツが指摘したポイントとして、三つを知っておけばいい。それは、防御と集中と天才だ。

(防御について)
<一般に防御は攻撃よりも強力でありかかる事情が両極性のはたらきをしばしば消滅させる、また軍事的行動に停止状態の生じる理由もこれによってよく説明されるのである(中略)我々の確信するところでは、(正しい意味の)防御は攻撃よりも著しく強力であり、しかも我々がかいなでに想像するよりも遥かに強力なのである(岩波文庫版上巻 P51)>

(集中について)
<兵数が敵方よりも優勢であるということは、戦術においても戦略においても、勝利の最も一般的な原理である。(中略)決定的な地点においては、できるだけ多数の軍隊を戦闘に参加せしめねばならない、ということである。現代のヨーロッパでは、いかに才能のすぐれた将師でも、二倍の兵力を有する敵と対抗して勝利を得ることは極めて困難である。(岩波文庫版上巻 P288、P290、P292)>

(天才について)
<何か独特の行動が一種独特の熟練をもって遂行されるとすれば、そこには知性と情意との独特の素質が無ければならない。そしてかかる知性と情意とが衆にぬきんで、また異常な業績によって顕示されるならば、この両つの心力を併せ有する精神は天才と名づけられてよい。

(中略)戦争は危険を本領とする、従って何ものにも増して軍人の第一の特性は勇気である。

(中略)戦争においては、一方では情報や予測がすべて不確実であり、また他方では偶然が不断に介入する。

(中略)未だ曽て予期したことのないようなものとの不断の闘争によく堪えねばならないとすれば、何よりもまず二個の特性を欠くことができない。その第一は、このような甚だしく不分明な事態のなかにあっても、真実を証破するだけの光りをはつかながらも保有しているような知性である、また、第二は、このともしい光りに頼って行動するところの勇気である。(岩波文庫版上巻 P88、P90、P92、P93)>

戦争は領土を奪い、ビジネスは消費者の心を奪う

さて、私たちは、ここからどのような誤読が可能だろうか。たとえば、これをビジネスへの展開の意味から考えてみる。三位一体は、国民=社員、軍=ビジネス戦略、政府=取締役会と考えてみるとわかりやすい。企業戦略は社員の熱狂的な支持に裏付けされておらねばならず、そこには取締役会の高度な企てが必要だ。

戦争では相手の戦力を破壊し、あるいは領土を奪う。ビジネスはライバル企業と消費者の心を奪い合う。なるほど、クラウゼヴィッツをビジネス戦略の書として読めば、さまざまな発見があるだろう。

その意味で、クラウゼヴィッツが説いた防御と集中と天才も、同様にビジネスに応用されて解釈されてきた。自己のビジネス領域を死守すること。そして、資源を集中すること(これは人員集中や地域集中の意味でさまざまなビジネス戦略を生み出してきた)。さらに教養主義者としてのビジネスリーダーの重要性。

しかし、私はここにニーチェの取り上げられ方のような気味の悪さを感じる。そもそも一般的な倫理を超越した思想を発したのがニーチェだったはずなのに、日本では人生訓とか処世術といった文脈で都合よくニーチェの発言が切り取られる。ニーチェは安っぽいビジネス誌を飾る思想家に成り下がっている。ニーチェ本人がみたら、それこそ吐き気を催すだろう。

クラウゼヴィッツも、その原典を文字通り読むことよりも重大な教訓がないか。もし『戦争論』を読んだ者どうしが闘ったらどうなるかと考えてみるのは面白い。戦略が常識化した際の逆説。

クラウゼヴィッツを、それこそクラウゼヴィッツ的に読むならば、『戦争論』で書かれた戦略や戦術はすべて乗り越えられるべきものとして扱わなければならないのではないか。実際に冒頭で紹介したとおり、クラウゼヴィッツは自説を変え、最後までアップデートにこだわった。

たとえば、防御というが、2010年代に旧来のビジネスモデルを死守しようとした日本製造業はいまどうなっているだろうか。集中といっても、実店舗という資源に集中した小売店はそれがもはや強みではなく弱みになり、ネット企業の攻防にさらされている。

また、天才というが、私たちは1万人に一人の天才さえいれば成り立つ世界に生きているのではないか。とすれば、天才が不在であっても私たちは、勝負に勝てる方法を模索すべきではないか。

あえて『戦争論』は反語として読まなければならない、と極端に振り切ることこそ真にクラウゼヴィッツ的ではないのか。そして、それら超『戦争論』としての教訓は、愚者の直観とも正しいように思われる。その意味でやはり、愚者も賢者も、行動レベルでは変わりがないかもしれない。

私は、有名な研究者が説く正しい読み方は興味がないと書いた。クラウゼヴィッツ的に『戦争論』を読むならば、そのような読み方をすべきだ、としか私には信じることができない。

それにしても、古典を意図的に誤読することは、なんらかのヒントや恣意のきっかけを与えてくれる。古典を読む楽しみは、少なくとも私にとってはそうだ。

正しい解釈にこだわらない読書会

7月11日にクラウゼヴィッツ『戦争論』をとりあげ読書会を実施する。書籍をもってきていただければ大丈夫で、事前にお読みいただく必要はない。

・岩波文庫版「上」のみ持参
・電子書籍ではなく、紙版がふさわしい
・読んでいなくても参加可能
・可能なら第一篇を読む
・さらに可能なら「上」全編を読む

当日は意見交換をしながら、大胆に誤読してビジネス等のヒントを解説していきたい。

少しでもご興味あるかたのご参加を心からお待ちします。
 

<坂口孝則さんと古典を読む読書会概要>

《日程・図書》

第2回 7月11日(木) 
【ビジネスの戦略を学ぶ】19時30分~21時30分
クラウゼヴィッツ『戦争論』(上/岩波文庫)

第3回 9月5日(木)19時30分~21時30分
【常にウケるコンテンツを学ぶ】
モンテーニュ『エセー』(1/岩波文庫)

*各自で課題図書をご購入のうえ、当日ご持参ください。

《参加費》
各1回   2,500円
2回券  4,500円

詳細・お申込みは、幻冬舎大学のお知らせページをご覧ください。

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坂口孝則

調達・購買コンサルタント/未来調達研究所株式会社取締役/講演家。
2001年、大阪大学経済学部卒業後、電機メーカー、自動車メーカーに勤務。原価企画、調達・購買、資材部門に従業。
製造業を中心としたコンサルティングを行う。
著書に『牛丼一杯の儲けは9円』『営業と詐欺のあいだ』『1円家電のカラクリ 0円iPhoneの正体』『仕事の速い人は150字で資料を作り3分でプレゼンする。』(小社刊)などがある。

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