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阿古真理さんの連載「料理ができない!うつ病が教えてくれた家事の意味」が1冊の本になりました。題して『料理に対する「ねばならない」を捨てたら、うつの自分を受け入れられた。』です。

作家、そして生活史研究家として精力的に活動している阿古さん。しかし、30代半ばにうつ病を発症しています。それまでは料理を特に苦もなく行っていたにも関わらず、まったくできなくなる事態に。料理は家事の中でも特にクリエイティブな作業。できなくなってはじめて、食材をそろえたり調理の段取りを整えたり、食材の使い回しを考えたりといったことが、とても高度な技能を要する点に気づいたといいます。
うつ闘病を通して、「食とは何か」「家庭料理とは何か」を発見していった阿古さんの体験的ノンフィクション。ぜひ試し読みください。

*   *   *

私が「間違いなく自分はうつにかかっている」と認めざるを得なくなったのは、36歳のときだった。今は「あるよねー。そういう時期」と風邪並みに軽く扱う人もいるぐらい、珍しくない病気になったが、昭和に育った私にとって、それは深刻で見たくない現実だった。何しろ私が子どもの頃、精神病患者は「気が狂っている、危ない人」と敬遠されがちだった。家族は恥とし、病人は人目を忍んで暮らさなければならなかった。

病院にかかりたくない別の理由もあった。大学で受けた精神衛生学の授業で、精神病にかかると、原因を掘り起こすため幼児期のトラウマに向き合わなければならないと教わったのだ。そういう教育を受けたのも昭和だった。

母親の顔色をうかがいながら育った自覚がある私は、そんな過去を掘り起こすのは嫌だった。うすうす自分がうつかもしれないとは気がつきつつ、病院に行くことから逃げていたら、もうとんでもなく深刻な病状になってしまった。

私は26歳のときに阪神淡路大震災で被災している。あのときもいろいろあり、その後夜あまり眠れなくなっていた。30歳で結婚して移り住んだ東京の部屋が、幹線道路への抜け道に面していたのもよくなかった。その道が便利だと情報が広まったのか、交通量が次第にふえ、ますます眠れなくなった。さらに、仕事先の人からパワハラも受け、眠るために夜に夫と散歩している途中も、「私が悪いの。私がダメなの」と自分を責めて泣きじゃくる、という状態になる。もうこれはどうしようもない。

トラウマとの直面が怖かったので、最初のうちは内科で薬を処方してもらっていた。最初にかかった内科の先生は、専門でなかったからか、睡眠導入剤で眠れるようにはなった私の日中の症状は、むしろ悪化した。坂道を転げ落ちていくように悪くなる病状を、食い止められなかったのかもしれない。精神科へ転院したのは数年後。その先生には今もお世話になっているが、幼少期と向き合わされたことはない。

最悪の時期は、最初の2年間ぐらいだったと思う。よく覚えているのは、仕事のことで何か思いつき、起き上がってメモを取ろうとしたら、一行書くだけで全力疾走したみたいに息が切れてしまったこと。一日の大半を寝て過ごしていたこの頃、寝ている自分の体が重くてたまらず、空中に浮かんでいられたらいいのにと願っていた。目をつぶるのもしんどいし、視線を動かすのもしんどいので、特に見たいわけではない一点をじっと見ていた。

うつの人が周りにいる人は、うつの人が一点凝視するのをご存じかもしれません。それは、瞳を動かしたり瞼を閉じることすらしんどいからなんですよ。

おかげで深刻な病気になる、とはどういうことかわかるようになってしまった。ドラマで死にかけている病人が、来客があるとちゃんと座って応対したり、死にかけているときにちゃんと体を起こして滔々としゃべりまくるのは、絶対嘘だと思う。この理解が役に立ったのは、亡くなった義母が病気になった折で、電話で病状を話す義母に「お母さん、今こんな感じなんですね」「そうやねん!」「それ、医者にちゃんとしんどいって言ったほうがいいですよ」といった会話ができた。もしかすると、少しは気持ちを軽くするのに役立てたかもしれない。

寝室の窓が、部屋の角を覆う形についていたので、南側と西側の光が差し込み、東の白い壁を照らす。光が当たる位置がゆっくりと移動していくのを、ふとんの中からじっと見ていた。

生きているものと接したくて、たまに花を買う。しかし、飾れる棚が寝室に寝ているとあまりよく見えない位置にあり、窓から見えるのも隣の家の壁だけなので、「庭が見える部屋に住みたい」とすごく願っていた。自転車で10分走れば緑豊かな公園に行けるのに、その体力がなかった。

一日中寝ていると、ちょっとした音にも敏感になる。窓からは見えない一階の大家さんの庭木の葉っぱが、カサッと落ちる音が聞こえ、そんな気力もないのに俳句でも読みたい気分になる。「ああ、私は正岡子規の気持ちが分かる」と、よく知りもしないのに共感していた。

数年後に松山へ行った折、子規庵を訪ねた。広い公園になっている縁側からの景色をぼんやり眺め、「これが子規の部屋かあ」と感慨に浸る。しかしその後、子規が晩年を過ごした部屋は東京にあると知り、自分の感慨が間違っていたことを知った。松山の子規庵はその年、豪雨被害を受けてしまったので、行けたことはよかったと思う。

さらに数年後、初めて『仰臥満録』を読む。子規は病床にいながらも、深刻な病状になるまでは見舞いに訪れる大勢の友人に囲まれて過ごし、大いに食べていたことを知った。寝たきりの状態なのに、最大限に遊ぶパワフルさは、私の心境とはぜんぜん違うのではないか。そもそも現代俳句の父と自分を同列に並べる時点で、図々しいのだが。

床に臥していた頃、私は料理ができなかった。

長く立っているのがしんどいというのはもちろんあるけれど、一番の問題は料理の段取りができないことだった。料理は、かなりクリエイティブな家事で、技術も要する。食材を洗う、食材を切る、炒める、煮る、焼く。一つ一つの作業は単純だが、それをどのような順序でやるか、どのぐらいの手間をかけるのか、その段取りを考えなければいけない。二つ以上の料理をつくる場合は、作業が複雑に絡み合う。

何より大変なのは、献立を決めることだ。冷蔵庫に残っている食材や、買ってくるべき食材を決めることも困難だ。そもそも何を食べたいか考えることすら、当時の私には難しかった。思考力が減退しているからである。もやもやとぼんやりしている頭の中のことを、アウトプットする力もない。

今でも体調が急に悪くなると、言葉が出てこなくなるが、うつ真っただ中にいると、考える力が下がるし、感じていることを言葉として表現する能力も衰える。なかなか思うとおりに動かない体を使って、何かすることも難しくなる。

そういう状態は、料理をするうえで危険である。料理は、瞬発力を要求する作業である。何しろ、火と包丁を使うのだ。危険極まりない。

何より料理しようという気力がわかない。「料理しなきゃ」と思っても、体がテコでも動こうとしないのだ。そんな状態の私を見て、夫が料理を毎日つくることを引き受けてくれた。それまでは交代で料理していた。あの頃、夫は仕事で夜中までパソコンに向かうこともひんぱんにあったにもかかわらず、私が料理どころではないので、毎日つくってくれたのである。

このことをいまだに私は感謝し続けているし、夫に不満ができたときも思い出してしまう。本当に困っていたときに助けてくれたこと。これは私を夫に結びつける絆の一つになっていると思う。

一応ほかの家事はできる。というか、体を動かさないと回復がますます遠くなるので、リハビリを兼ねてやる。掃除も洗濯も買いものも洗いものもできたけど、料理だけはできない。ほかの家事は、工夫すればいくらでも大変になるとはいえ、ルーチンで作業としてこなすこともできる。料理だけができない、という状態は、いかに料理がクリエイティブで高度な能力を要求する家事であるかを、私に教えてくれた。

この連載では、そんなうつとの闘いの日々から学んだことを、料理を通して描いていきたいと思う。

関連書籍

阿古真理『料理に対する「ねばならない」を捨てたら、うつの自分を受け入れられた。』

36歳、うつ発症。 料理ができなくなった 食文化のジャーナリストが 発見した22のこと。 家庭料理とは何か。 食べるとは何かを見つめた 実体験ノンフィクション。

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料理に対する「ねばならない」を捨てたら、うつの自分を受け入れられた。

うつ病になったら、料理がまったく出来なくなってしまったー。食をテーマに執筆活動を続ける著者が、闘病生活を経て感じた「料理」の大変さと特異性、そして「料理」によって心が救われていく過程を描いた実体験ノンフィクション。

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阿古真理 作家。生活史研究家。

1968年兵庫県生まれ。神戸女学院大学文学部総合文化学科(社会学)を卒業後、広告制作会社を経てフリーに。1999年より東京に拠点を移し、食や生活史、女性の生き方などをテーマに執筆。著書に『昭和育ちのおいしい記憶』『うちのご飯の60年 祖母・母・娘の食卓』『昭和の洋食 平成のカフェ飯 家庭料理の80年』『「和食」って何?』『小林カツ代と栗原はるみ 料理研究家とその時代』『料理は女の義務ですか』『なぜ日本のフランスパンは世界一になったのか パンと日本人の150年』『パクチーとアジア飯』『母と娘はなぜ対立するのか 女性をとりまく家族と社会』など。

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