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料理ができない!うつ病が教えてくれた家事の意味

2020.06.14 更新 ツイート

二つの震災とうつ阿古真理

生きていると、思いがけないことが起こることがある。私も、まさかうつと共に歩む人生なんて思いもよらなかったし、若い頃は、私の人生なんて平凡でつまらないもの、と思い込んでいた。だから、阪神淡路大震災で被災したときは、物書きとしてすごいアドバンテージを得たように思ってしまった。ゴジラが家をおもちゃ箱みたいに揺さぶっているような揺れのため、布団の中で丸まっていたときに……能天気だった。

あの頃の私は、作家になるには特別な個性と普通じゃない人生が必要、と思っていた。でも、本当に必要なのは、精神的に自立することだった。親に屈託を抱えながらも依存していた私が、何者でもなかったのは当然だった、と今ならわかる。

災害も事件も他人事だと思っていたのに、突然の当事者。私に備えはなかったが、日本の社会にもそうした大きな危機に対する心構えはできていなかった。

今でこそ、そういうときに受ける心の傷に目を向けられるようになった。PTSD、トラウマ、心の傷。そんな言葉が広がったのは、阪神淡路大震災がきっかけだった。でもまだ知られるようになったばかりだったから、その頃は、いろいろとひどかった。

被災地までわざわざ見学に来て、瓦礫の山で記念写真を撮った若者たちについては、報道もあったから覚えている人もいるだろう。少し後だが、東京に移って、あの震災の被災者だと知った周りの人から、好奇心むき出しで体験を聞かれ、一生懸命説明した日の夜は悪夢にうなされる、という時期もあった。

仮住まいの家が遠い地域になって不安がる被災者を、「被災者のくせに文句を言うな」と叩くような風潮もあった。被害者という存在は被害に遭ったがゆえに、身を縮めて生きなければならない。私が子どもの頃はそういうことを求められがちだったし、平成になったばかりのあの頃も、まだそういう雰囲気があった。

住んでいた親の家は半壊になり、電気はすぐ復旧したが、ガスがその日のうちに止められ、水道も止まっていた。幸い、近所に新しい体育館ができたところで、そこでトイレを済ませ、夜は泊った。弁当ももらった。ふだん私はあまりバナナを食べないが、あのとき弁当についていたバナナは、人生最高においしかった。

2日ほど、家の片づけや水くみや買い出しに追われたが、3日目から出勤。家の電話は止まっていて公衆電話も長い行列でほとんど誰にもつながらなかったので、会社に行くと「阿古さん無事だった!」といろいろな人から声を掛けられる。親から軽く扱われ続けて自分を「取るに足らない」と思っていたから、心配してくれた人たちの存在に驚いた。

大阪市内の会社やその周辺には何も被害がなく、トイレで水は流れるし、オフィスはエアコンがついていて、被災地とのギャップに何だか泣けてきた。移動時間はたった1時間なのに、天と地ほどの環境の違いがつらい。あまりにも大き過ぎる環境の変化は、大きなストレスになる、と知ったのはだいぶ後だ。

私が勤めていた会社は、家電や住宅、住宅設備の販売促進ツールを作る広告制作会社で、周りが「震災でも無事だった浴槽」「震災でも無事だった瓦」「震災でも無事だった社宅」の事例集めに色めき立っていたこともつらかった。同僚の多くは大阪や奈良、京都方面に住んでいて、被災者は社内で1割もいなかったと思う。

その1割のうち、自宅復旧のために1カ月も休職している先輩がいた。住んでいたマンションが、倒壊した高速道路の近くで、生まれて初めて神戸以外で仮住まいしている先輩もいた。少ない被災者同士で、私たちは妙な連帯感を共有していた。数年後に「あれって震災前だったよな」と思い出を語る先輩が、周りに「なんやその言い方」と笑われていたけど、震災前と震災後はキリスト誕生前後みたいに世界が違う、という感覚は私も分かる。

家族は数日、体育館で寝泊まりした後、母が言い出して大阪の従妹の家に身を寄せた。でもその1週間後、母は突然私だけを置いて自宅に戻った。朝になっていきなり「あなたはここに残りなさい」、と有無を言わさず残された私の心の傷は深く、その後実家を自分の「帰る場所」だと思えなくなった。家族の中で私だけが、テレビの揺れる映像をいっさい直視できなくなった。10年経ってあのときはつらかった、とようやく母に告白したところ、「だって仕方なかったんや!」とキレられた。そういうことも、「この人とはやっていけない」と考えた要因の一つだった。

避難所暮らしのとき、同僚から「阿古ちゃん、何が今食べたい?」と聞かれた。「煮たもの、焼いたもの、炒めたもの」と即答したら「テレビに出てた人と同じこと言ってるー!」と返された。会社の近くでいつも買う弁当を家族の人数分そろえ、インスタントの卵スープをポットのお湯で煮溶かして夕食にする、という生活だったから、調理したてのものを食べたかったのである。

私は2カ月、従妹の家でお世話になったのち、1人暮らしを始めた。自分の好きなものを好きなように食べられるのがうれしくて、2~3カ月は買ったばかりのレシピ本をもとに、料理しまくった。豆腐のステーキとか炒り豆腐とか、手の込んだ料理も楽しんだ。

自分で自分の食べるものを賄う喜びに満ちた時間は、それから16年後、東京で東日本大震災のときに再び訪れた。幾分ハイになっていた1995年と違って、このときはしみじみした気持ち。東京も震度5だったけど、幸い本棚だらけの部屋でモノが落ちることはほとんどなく、放射能に怯える以外は日常生活に支障はなかった。そして、計画停電のエリアにも入っていなかった。

ただ、阪神淡路大震災のときのフラッシュバックがすごかった。うつもまだ回復しかけという段階だったので、2カ月ほどずっと心臓のドキドキが止まらなかった。

阪神のとき、家から切り離されたトラウマは、やはりとても大きかった。夫は放射能の危険を避けるため、一時的に奈良県の自分の実家に帰ろうと言ったが、私は住んでいるところを離れたら二度と戻ってこられない気がして、あるいは東京の人たちから部外者扱いされるようになるのではないかと恐れて、泣きながらそれは嫌だと主張した。阪神のときのトラウマだけでなく、うつが環境の変化に弱いことも心配だった。もし「逃げ出さなければ死ぬ!」という状況に置かれたら身がすくんで私は死ぬな、と思った。

そんなとき、唯一心が休まるのが料理する時間だった。何しろ、電気もガスも水道もいつもの通りに動いている。エアコンは使えるし、蛇口をひねれば水が出る。お湯も沸かせる。料理できるってありがたいなと思いながら、和食をつくった。新型コロナウイルスで巣ごもり生活を始めたばかりのときも、和食をつくった。危機のときは和食を食べたくなるのかもしれない。東日本大震災のときは、肉野菜炒めの醤油・みりん味が多かったかな。単純な料理で、いつもの自分の味が食べられることが、しみじみとありがたい日々を過ごし、少しずつ日常を取り戻していったのである。

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料理ができない!うつ病が教えてくれた家事の意味

うつ病になったら、料理がまったく出来なくなってしまったー。食をテーマに執筆活動を続ける著者が、闘病生活を経て感じた「料理」の大変さと特異性、そして「料理」によって心が救われていく過程を描いた実体験ノンフィクション。

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阿古真理 作家。生活史研究家。

1968年兵庫県生まれ。神戸女学院大学文学部総合文化学科(社会学)を卒業後、広告制作会社を経てフリーに。1999年より東京に拠点を移し、食や生活史、女性の生き方などをテーマに執筆。著書に『昭和育ちのおいしい記憶』『うちのご飯の60年 祖母・母・娘の食卓』『昭和の洋食 平成のカフェ飯 家庭料理の80年』『「和食」って何?』『小林カツ代と栗原はるみ 料理研究家とその時代』『料理は女の義務ですか』『なぜ日本のフランスパンは世界一になったのか パンと日本人の150年』『パクチーとアジア飯』『母と娘はなぜ対立するのか 女性をとりまく家族と社会』など。

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