1. Home
  2. 社会・教養
  3. 朝日新聞記者の将棋の日々
  4. 「永世名人」の資格を持つ谷川浩司九段――...

朝日新聞記者の将棋の日々

2020.06.04 更新 ツイート

「永世名人」の資格を持つ谷川浩司九段――B級2組でもなお戦い続ける理由村瀬信也(朝日新聞 将棋担当記者)

昨年6月27日のB級1組2回戦、屋敷伸之九段と対戦する谷川九段。(村瀬信也撮影)

1月23日。真冬の東京・将棋会館には、夜になっても多くの記者が詰めかけていた。ある1人の名棋士の対局が大きな注目を集めていた。

 

十七世名人の資格を持つ谷川浩司九段。タイトル獲得27期の実績を持ち、「光速の寄せ」と称される切れ味鋭い終盤力で多くのファンを魅了してきた。史上最年少の21歳で名人を獲得し、名人挑戦権を争うA級順位戦の在籍期間は現役1位の32期を誇る。

しかし、近年は不本意な戦いを強いられる場面が目立つ。順位戦は、A級の一つ下のB級1組に2014年から在籍してきたが、19年度は白星が遠い日々が続いた。この日の対局を迎えた時点で2勝8敗。敗れるとB級2組への降級が決まる。

負けられない一戦で選んだ作戦は角換わり腰掛け銀。これまでの活躍の原動力となってきた得意戦法だ。しかし、研究家で知られる千田翔太七段が指した64手目△4三歩を前にして、ピタリと手が止まる。1時間30分の長考の末、攻撃の継続を図ったが、一段落した後の千田の反撃が厳しかった。午後8時53分、谷川が投了。無念の降級が決まった。

 

インタビューは別室で行われた。質問役の記者が「新年度からB級2組でも指し続けますか」と尋ねると、谷川はこう答えた。

「4月までによほどの心境の変化がなければ、指すつもりでいます」

重苦しい空気が不意に緩んだ気がした。

B級1組の降級が決まり、取材に応じる谷川九段。(村瀬信也撮影)

将棋界において「名人」は、他のタイトルとは違う重みを持つ。特に、通算5期獲得で資格を得られる「永世名人」は、世襲制だった江戸時代からの伝統を有する特別な肩書だ。

そんな「レジェンド」とも言うべき存在でも、それまでの地位を守れなくなる時が来る。中原誠十六世名人は52歳の時、A級からB級1組に降級し、2年後に順位戦を指さない「フリークラス」に転出した。十八世名人の資格を持つ森内俊之九段も、46歳でA級から陥落してフリークラスになった。永世名人の資格を獲得した後にB級2組で指した棋士はいない。

棋士や記者の間には、「谷川九段は、B級2組に降級したらフリークラスに転出するのでは」と見る向きもあった。私自身、谷川をよく知るある棋士から「B級2組では指さないんじゃないですか」と聞いたことがある。それだけに、本人の言葉に間近で触れて、肩の力が抜けたことを記憶している。

谷川は今年、58歳になった。前述したような観測、そして「フリークラス転出」という選択肢があることは当然、意識していただろう。それでもなお、順位戦を指し続ける理由は何か。そして、戦い続けるモチベーションとは何なのだろうか。

 

将棋の現役棋士は現在169人いる。その中でも谷川は、独自の「美学」を強く感じさせる棋士の1人だ。「本筋の手を指す」「詰みがある局面では詰ます」といった技術的な面だけでなく、対局中の泰然とした所作も他の棋士の模範というべき美しさがある。谷川の対局の観戦記を担当した経験が一度あるが、終盤になっても慌てることなく、落ち着いた手つきで指し進めて勝利を収める様はほれぼれとするほどだった。

こうした「谷川将棋」とある意味で対極にあるのが、人工知能(AI)を搭載したソフトの将棋だと言えるかもしれない。AIは通常、「評価値」が高くなる手を選んで指し続ける。「勝ち目がない見苦しい手は指さない」「形を作って投了する」といった概念は、AIの将棋には存在しない。

谷川がAIについて発した印象的な言葉がある。2014年3月に大阪で開かれた電王戦第3局で、現名人・竜王の豊島将之七段がソフトの「YSS」と対戦した時のことだ。

この将棋は、戦いが始まってから豊島がリードを奪い、快勝したのだが、不利になったYSSが「△1四金」という凡手を指す場面があった。アマチュアでも指さないようなその場しのぎの手に対し、当時日本将棋連盟の会長だった谷川は、対局後の記者会見でこう語った。

「今日の将棋はコンピューター側に残念な手がありました。これを機会に、開発者のみなさま方には、より強いソフトの開発をしていただければと思います」

この年の電王戦は、この日の勝利が棋士側の唯一の白星で、結果的に1勝4敗で敗れることになる。谷川自身も既にソフトの強さは認めていたが、棋士が指す将棋において、理外の手が盤上に現れることが受け入れがたかったのだろう。谷川美学の一端に触れた瞬間だったのだと改めて思う。

2014年の電王戦第3局で記者会見に臨む谷川九段。(村瀬信也撮影)

5月上旬。谷川に電話で話を聞く機会があった。詰将棋に関する取材が本題だったが、近況についても話が及んだ。最近の目新しい活動の一つとして挙げたのが、「AbemaTVトーナメント」への出場である。

棋士が3人1組のチームを組んで戦う非公式の団体戦。1手指すと持ち時間が5秒加算されるという独特の早指しルールで、スリリングな熱戦になりやすいことから評判を呼んでいる。

谷川は5月23日に配信された番組で、弟子の都成竜馬六段と三番勝負で対戦。1勝2敗で敗れたものの、本筋の指し手で優位に立つ指し回しは、チームメートの佐藤康光九段も「強すぎます。格調が高い」と感嘆するほどだった。

「この年になって新しいことを始めるとは思いませんでした。家にいる時間が長くなりましたが、同じチームの3人でツイッターをやっていることもあり、メリハリがある1日を送れています」
コロナ禍にあっても、新鮮な気持ちで日々を過ごしているようだった。

新しく取り組んでいることは他にもある。AIを活用した将棋の研究だ。自分が指した将棋を検討するためで、去年の9月ごろに採り入れた。「使ってみると、対局中は『苦しい』と思った局面が、実はそうではなかったということが結構ありました」。かつては距離を置いていた新しいツールも活用して、巻き返しを図る。

順位戦でA級にいたころと違い、今は各棋戦において予選から戦うことが増えた。それでも、年下の棋士たちとの競争を戦い抜いて、タイトル挑戦権に近い位置まで勝ち上がるのは容易ではない。現在、視線の先に見据えているのは「トップ棋士と対戦すること」だ。

「トップ棋士と対戦するのは、充実した時間を過ごせるということ。そういう機会を少しでも多く持ちたい」
控えめな口調ではあったが、明日への意欲を感じさせる言葉だった。

今期のB級2組では、4回戦で藤井聡太七段との対戦が組まれている。「史上最年少名人」の記録保持者と、その記録を更新する可能性を持つホープの激突。ファンの熱い視線が注がれることは間違いない。

「私の記録を破れるかどうか、恐らく藤井七段本人は考えていないでしょう。でも、注目が集まるという意味では、良かったと思います」

谷川がプロ入りしてから44年の月日が経つ。長きにわたって続いてきた「谷川物語」に、新たな1ページが加わることになる。

関連キーワード

{ この記事をシェアする }

この記事を読んだ人へのおすすめ

幻冬舎plusでできること

  • 日々更新する多彩な連載が読める!

    日々更新する
    多彩な連載が読める!

  • 専用アプリなしで電子書籍が読める!

    専用アプリなしで
    電子書籍が読める!

  • おトクなポイントが貯まる・使える!

    おトクなポイントが
    貯まる・使える!

  • 会員限定イベントに参加できる!

    会員限定イベントに
    参加できる!

  • プレゼント抽選に応募できる!

    プレゼント抽選に
    応募できる!

無料!
会員登録はこちらから
無料会員特典について詳しくはこちら
PAGETOP