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朝日新聞記者の将棋の日々

2019.09.04 更新 ツイート

うつ病から復帰した先崎学九段――将棋を取り戻したプロ棋士のいま村瀬信也(朝日新聞 将棋担当記者)

2018年7月、休場から復帰して順位戦を戦った先崎九段。(村瀬信也 撮影)

「ひどい目に遭いましたよ」

私が声をかけると、先崎学九段は苦笑いしながらそう答えた。以前会った時に比べて、だいぶ痩せたように見えた。

2017年12月。東京都内のホテルで、中村太地王座(現七段)の就位式が開かれた。羽生善治九段を破り、念願のタイトル獲得を果たした若武者の晴れの舞台。休場中の先崎も、同じ故米長邦雄永世棋聖門下の弟弟子のために駆けつけた。

 

当時、休場の理由は、公表されていなかった。私は、日々の取材を通じてある程度察しはついていたが、詳しい事情はわからない。「ひどい目」とは、どういう意味だろう――。返す言葉が見つからなかった。

「才気煥発」「八面六臂」。先崎の名前を見ると、そんな四字熟語が思い浮かぶ。20歳でNHK杯テレビ将棋トーナメント優勝を果たし、順位戦ではA級の座にまで上り詰めた。技術と勝負の両面でツボを押さえた解説も人気がある。

そして、将棋ファン以外にも広く知られているのが、その文才だ。週刊誌で長年連載されたエッセーには、棋士たちの飾らない素顔、そして将棋に懸ける一途な姿勢が生き生きと描かれていた。私自身、最も多く読んできた棋士の文章は、先崎の文章である。

18年7月、先崎が書いた一冊の本が世に出た。タイトルは『うつ病九段』(文芸春秋)。うつ病になってから休場を決断し、復帰を目指す過程を自らつづった本だ。プロなら一目で解ける詰将棋に悩んで焦ったり、後輩の棋士たちの協力を得て、必死になって練習将棋に取り組んだり。数々のエピソードは深刻な内容のものばかりだったが、そこには生身の人間の姿があった。知らず知らずのうちに引き込まれ、あっという間に読み終えた。

冒頭で記した就位式のことも触れられていた。その日は発病以来、「大勢の人間に会うこと自体はじめて」で、不安を抱えた状態だった。当時はまだ回復の途上にあり、その後も様々なつらいことがあったという。本を読んで初めて知ることばかりだった。

うつ病のつらさは、当事者でなくても何となく理解はできる。だが、棋士が将棋のことを考えられなくなった時の絶望感はどうだろう。病を克服するだけでなく、子どもの頃から一歩一歩積み上げてきた将棋の力を取り戻さなければいけない。長く続いた日々の本当の苦しみは、本の行間をいくら見つめても浮かび上がらない。


8月のある日。先崎は、JR西荻窪駅にほど近いビルの一室でイベントを開いた。ゲストに招かれたのは、休場中の先崎を支えた後輩の1人である中村だ。1DKほどの室内は、約15人の将棋ファンで一杯になった。

先崎は、囲碁の棋士である妻の穂坂繭三段と共に、この「囲碁・将棋スペース 棋樂」を運営している。元々は、研究会用に借りた部屋だったが、病気を機に、一般の人たちが将棋を楽しめる場所としても活用することになった。取材対応などにも用いられる、先崎の新たな活動拠点なのだ。

この日は指導対局の後、先崎と中村の早指し対局が行われた。将棋祭りでのお好み対局はおなじみだが、手を伸ばせば届くほどの距離でプロの対局が見られるのは珍しい。私はその様子を撮影させてもらった。

ファインダーをのぞいた私は思わず息をのんだ。将棋盤をはさんだ2人の姿が、公式戦さながらの迫力だったからだ。駒を見つめる目は、盤の奥深くに隠された将棋の真理を見つけようとするかのようだった。先崎が投了を告げると、張り詰めていた空気がフッと緩んだ。

休業中の先崎九段を見守っていた弟弟子・中村太地七段。ファンの人たちが取り囲む中、二人の早指し対局が行われた。(村瀬信也 撮影)

終了後、居酒屋で先崎に話を聞いた。ファンの前での早指し対局は「他でやっていないことをやりたい」と考えて始めたもので、他の棋士がゲストの際にも行っているという。「今日は私が弱いから負けましたけど、毎回、一生懸命指しています。将棋指しの本当の姿を見せたいんです」

「囲碁・将棋スペース 棋樂」のパーティションには、来場した多くの棋士たちのサインが書かれている。(村瀬信也 撮影)

先崎が対局に復帰してからまもなく1年半が経つ。順位戦でC級1組への降級を経験するなど、現状の成績は不本意だろう。「頑張れば必ず報われる」という甘い世界ではない。だが、先崎の努力はいずれ実を結ぶはずだ。

杯を傾けながら、私はレンズ越しに見た先崎の表情を思い出していた。

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