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いま気になること

2021.05.03 更新 ツイート

大泉サロン伝説は、完璧な物語となった 中川右介

人気漫画家の萩尾望都さんが過去の大泉時代のことをほぼ初めて語った『一度きりの大泉の話』(河出書房新社、2021年4月)が話題を集めています。
少女マンガの変革を目指した女性たちが集まったあの時代を、男性中心の漫画史に正面から位置づけた『萩尾望都と竹宮惠子 大泉サロンの少女マンガ革命』(2020年3月、幻冬舎新書)の著者である中川右介氏は、今回の本で、大泉の核だった二人のすれ違いや新事実が明確になっても、大泉時代の重要性は変わらない、むしろ少女マンガ“革命”の中身は、二人の考えよりもっと広く重要なことだったのでは、と問いかけます。その意味とは――。

* * *

本稿は『萩尾望都と竹宮惠子 大泉サロンの少女マンガ革命』を読んでいただいた方へ向けて書かれる。

(敬省略)

左から、 萩尾望都『一度きりの大泉の話』(河出書房新社)、竹宮惠子『少年の名はジルベール』(小学館)、竹宮惠子『扉はひらく いくたびも』(中央公論新社)。手前は中川右介氏の『萩尾望都と竹宮惠子 大泉サロンの少女マンガ革命』(幻冬舎)

2人の著作の刊行から推測できる一つのこと

ベストセラーとなっている萩尾望都の『一度きりの大泉の話』(河出書房新社)を読んだ。

昨年(2020年)3月、私は『萩尾望都と竹宮惠子 大泉サロンの少女マンガ革命』(幻冬舎新書)を上梓したが、その時に調べがつかなかったことのいくつかが書かれていた。

最大の謎は、「竹宮惠子と萩尾望都は、その後、会っているのか」だった。

詳しくは後述するが、2人は1973年に、竹宮からの一方的な「距離をおきたい」という申し出により友情関係が破綻した。このことは、竹宮が2016年に書いた『少年の名はジルベール』(小学館)に書かれている。だが、竹宮の本には、その後どうなったかは書かれていなかった。

『萩尾望都と竹宮惠子』を書くに当たり、2人に関係する文献資料を蒐集し、かなり調べたが、73年以降に2人が雑誌等で対談することはなく、また公の場で2人が一緒にいることを確認できる資料もなかった。

多分、2人の交流はなくなっている――私はそう思ったが、確証はない。「会ったこと」の証明はできるが、「会っていない」ことの証明はできないのだ。

ひとつの手がかりは、萩尾が書いた『私の少女マンガ講義』(2018年、新潮社)で、この本には少女マンガの歴史を解説するパートがあるのだが、萩尾が同世代の13人を丁寧に紹介したなかに竹宮の名はない(他にもたくさんいますと名前だけ列記したなかにはある)。

萩尾の主観による少女マンガ史なのだから、竹宮の名がなくてもいいのだが、ようするに萩尾史観のマンガ史には「竹宮惠子」はいないということが分かった。

そこに、『一度きりの大泉の話』が登場した。結論から言えば、2人は絶縁したままで、73年以後、萩尾は竹宮惠子のマンガを読むことすらないという。

一方、1か月早く、2021年3月に出た竹宮の自伝『扉はひらく いくたびも』(中央公論新社)では、〈以来、萩尾さんとは没交渉です。〉と1行だけ明記されている。

竹宮は、2016年の『少年の名はジルベール』では、萩尾との関係に多くのページを割いて書きながらも、その後は会っていないとは書かなかった。しかし、2021年の『扉はひらく いくたびも』ではそれを明らかにした。

この5年の間に何があったのか。

 

竹宮は萩尾に『少年の名はジルベール』を送った。しかし萩尾は読まず、本はマネージャーが竹宮に送り返した(と、『一度きりの大泉の話』に書かれている)。

推測だが、竹宮は『少年の名はジルベール』を書いたことで、萩尾との和解を求めたのだと思う。再び仲良くなることは無理でも絶縁状態は解消したいとの思いがあったのではないか。

『少年の名はジルベール』を書いたとき、竹宮は京都精華大学の学長で、同大学ではマンガについての学科もあった。萩尾にも何らかの協力を求めたい。だが、絶縁状態ではそれができにくい。竹宮としては、萩尾との関係修復が必要だった。

その思いをこめて、『少年の名はジルベール』は書かれたのだと思う。この本では、萩尾に気をつかい、かなり萩尾を好意的に描いている。

竹宮の本を読んだ編集者やプロデューサーが、萩尾に本の感想を求めたり、対談をもちかけたり、あるいはドラマにしたいと言ってくるのは、当然だ。竹宮は対談やドラマ化に、萩尾がよければ自分はかまわないと答えているそうだ(と、萩尾の本にはある)。

だが、竹宮の思いは萩尾には届かない。萩尾は、「本も読まないと」という門前払いをした。それだけ、萩尾の疵は深い。関係修復は不可能だ。

であれは、竹宮としても萩尾と絶縁状態であることを隠す必要はない。そう考え、2021年の『扉はひらく いくたびも』では、〈没交渉〉と記した――以上は、推測である。
 

歴史に埋もれていた「大泉時代」が再び現れたきっかけは『少年の名はジルベール』

2人が「絶縁」するからには、その前には良好な関係があったということだ。これについては2人それぞれが認めているし、『萩尾望都と竹宮惠子』に書いた。

萩尾望都と竹宮惠子は、若い頃、1970年から72年にかけて、2年間、練馬区南大泉にあった古い二軒長屋で共同生活をしていたのだ。そして、73年に2人は絶縁した――そういう歴史がある。

その南大泉の2人が暮らした部屋には、何人もの同世代のマンガ家がやってきて、いつしか「大泉サロン」と呼ばれるようになった。

こう書けば、マンガに詳しい人なら、「トキワ荘みたいだ」と思うだろう。

トキワ荘は手塚治虫が暮らし、その後に、藤子不二雄A、藤子・F・不二雄、赤塚不二夫、石ノ森章太郎らが同時期に暮らしていた「マンガの梁山泊」として知られ、藤子Aの『まんが道』やそのドラマ化、映画にもなり、広く知られている。

その歴史を踏まえた上で、竹宮は萩尾と二軒長屋で暮らすことにしたとき、トキワ荘みたいになったらいいと考えた。萩尾にはそういう意図はなかったとしても、竹宮はトキワ荘を意識していた。

結果として、2人が暮らす大泉の二軒長屋には、同世代のマンガ家がいりびたるようになり、「大泉サロン」と呼ばれるようになった(萩尾はこの名称を使わず「大泉」としか書かない)。

だが、「大泉サロン」の存在は、トキワ荘ほどは知られていない。

1970年代終わりから80年代にかけて、萩尾、竹宮らが「花の24年組」と呼ばれ論じられていた頃、「大泉サロン」も、そういう場があったとして言及されていたので、マンガマニアの間では有名でも、広くは知られていない。

大泉サロンは伝説になりかけたが、いつしか歴史のなかに埋もれていた。

その大泉サロンが再び脚光を浴びたのは、前掲の2016年刊行の『少年の名はジルベール』だ。この本では竹宮惠子から見た、萩尾望都との出会いと、共同生活と、その終わりとが描かれていたからだ。

 

『萩尾望都と竹宮惠子』でも指摘したが、竹宮惠子は積極的に大泉時代を語るが、萩尾望都は問われれば、「竹宮さんと2年間、大泉で暮らしました」と答えるのみで、積極的には語らない。

竹宮惠子は青春の思い出として語るが、萩尾望都は封印している。

その理由は、竹宮惠子の『少年の名はジルベール』を読めば推察できた。大泉での共同生活は1972年秋で終わったが、その後も2人は同じ最寄駅で、徒歩数分のところに部屋を借りて、行き来していた。

だが、1973年春、竹宮は萩尾に「距離をおきたい」と告げ、それで2人の関係は断ち切られたのだ。

竹宮が萩尾に「距離をおきたい」と言ったのは、『少年の名はジルベール』によれば、萩尾の才能に嫉妬し、そばにいるのが辛くなったからだという。

『少年の名はジルベール』では〈私(竹宮)は萩尾さんに、「距離をおきたい」という趣旨のことを告げた。〉としか書かれていない。

そう告げた理由についてはいろいろと書かれているが、「告げた」方法についてはぼかしてある。私も読んだ時、会って言ったのか、電話なのか、手紙なのか、気になった。

それが『一度きりの大泉の話』でははっきりと書かれている。

 

ある日、萩尾は竹宮から「話がある」から来てくれと呼ばれた。すると、萩尾が連載中の作品について、竹宮が描こうとしている作品と似ていると指摘された。だが、萩尾にはそんなつもりはなく、突然の指摘への動揺もあり何も言えなかった。

3日ほど後、今度は竹宮が萩尾のもとにひとりで来て、先日の話は忘れてくれと言って、「私が帰ったら読んで」と手紙を置いていった。その手紙に、「距離をおきたい」という趣旨のことが書かれていた。

この一連の経緯は、要約するにはあまりにも重いので、両者の本を読んでいただきたい。

萩尾の本に書かれていることが真実ならば、竹宮の『少年の名はジルベール』は、全体に赤裸々な告白に満ちているが、肝心の部分は隠し(似ていると指摘したこと)、ある部分はぼかしていたことになる(手紙で告げたこと)。

これは自伝によくある「自分に都合のいい書き方」だ。しかし、許容範囲といっていい。少なくとも、嘘は書いていない。
 

少年愛だけではない「少女マンガ革命」

萩尾は『一度きりの大泉の話』で、竹宮とは絶縁しているし、今後も会うつもりはないと、はっきりと書いた。もはや、萩尾望都が竹宮惠子と会うことはないだろうし、2人の対談など不可能だ。

部外者である私としては、萩尾望都が大泉サロン回顧ものに付き合わないと決めていることに、とやかく言うつもりはない。

だが、たとえ萩尾望都がどう思おうと、自身の記憶から消しても、事実としての大泉サロン2年間の歴史は消えない。さらに、萩尾望都は自分は「少女マンガ革命」とは無関係だったとも書くが、それは違うと思う。

萩尾はこう展開する。「自分には少年愛が分からない」、だから「自分が描いたもの(『トーマの心臓』など)は少年愛ものではない」、したがって「少女マンガ革命は自分とは関係なく、竹宮がやったこと」なので、「一緒にしないでほしい」。

萩尾の『トーマの心臓』が少年愛ものかどうかは、人によって見解が異なるだろう。

とりあえず、『トーマの心臓』は少年愛ものではなく、萩尾は少年愛ものの元祖でも何でもないとしても、だからといって、萩尾が1970年前後の「少女マンガ革命」に無関係というわけではない。

「少女マンガ革命」とは、少年愛だけではないのだ。SFや歴史ロマンも新たに開拓され、花開いたものだったし、表現としての技法も革新された。何よりも、若い女性が自分の才能で切り拓いていったというムーブメントだったはずだ。

1960年代末は、音楽でも映画でも新しい若い才能ある者たちが、既存のものを打ち破る時代だった。マンガも例外ではなく、竹宮・萩尾も作品が載った「COM」や「ガロ」といった雑誌が前衛的、革新的なマンガを載せていた。その流れに、大泉サロンもあった。

「少女マンガ革命」の担い手は竹宮と萩尾だけではない。里中満智子、池田理代子、一条ゆかり、大島弓子、山岸凉子、青池保子、木原敏江など、何人ものマンガ家が、「それまでとは違うマンガ」を生み出していった。

萩尾は「竹宮と一緒に何かをやったわけではない」と言いたいのだろうし、革命をしているという自覚はなかったかもしれない。萩尾は自分の描きたいものを描いていただけで、マンガを変革しようという意識などなかったかもしれない。

しかし、萩尾望都が少女マンガ革命の重要人物である歴史的事実は動かない。

100歩譲って、「少年愛」には萩尾望都が関係ないとしても、「少女マンガ革命」と無縁だったということにはならない。

 

トキワ荘が伝説となった軌跡

昨年、豊島区にトキワ荘マンガミュージアムが開館した。

トキワ荘は、1953年1月に若き日の手塚治虫が入居し、以後、雑誌「漫画少年」に投稿していた寺田ヒロオ、藤子不二雄A、藤子・F・不二雄、赤塚不二夫、石ノ森章太郎らが暮らしていたことで知られている。

トキワ荘は1981年に老朽化して壊されることになった。そこでNHKが手塚たちをトキワ荘に集めて同窓会をさせ、それをもとにドキュメンタリー番組を作った。

このトキワ荘回顧ブーム、トキワ荘の伝説化に、参加しないマンガ家もいた。トキワ荘グループのリーダー格だった寺田ヒロオである。

寺田は、1959年に「週刊少年サンデー」が創刊されたとき、手塚、藤子とともに連載を持ち、最も読者の支持を集めたマンガ家だった。しかし、60年代後半から、少年マンガでも暴力や性が描かれるようになり、そういうマンガが載っている雑誌にはもう描きたくないと、マンガを描くのをやめてしまった。

半ば隠遁生活をしていた寺田は、1980年前後のトキワ荘ブームには、関わらなかった。

寺田はインタビューでは、トキワ荘のみんなは、「成功したから貧乏話も面白おかしく語れるんであって、当時は、不安と焦りの憂鬱な日々の方が多かったと思います」という趣旨のことを語り、思い出の美化にも冷や水を浴びせた。

しかし寺田不在でも、トキワ荘は伝説となり、ミュージアムにもなった。

当事者の意図や思惑とは関係なく、伝説になるし、神話になることはある。

 

目指す形は違っても

竹宮惠子の『少年の名はジルベール』には、忘れられかけていた大泉サロンを、「第二のトキワ荘」「女性版トキワ荘」があったとして、伝説化する意図があったのだろう。

だが、伝説にするには萩尾望都の協力が不可欠だった。しかし、萩尾はそれを拒絶した。

『一度きりの大泉の話』の最後で、萩尾は〈執筆が終わりましたら、もう一度この記憶は永久凍土に封じ込めるつもりです。ちゃんとお墓を作り、墓碑銘も書きましょう。〉と記し、その墓碑銘を書く。それはあまりにも見事な墓碑銘だ(ぜひ同書で確認していただきたい)。

破局の物語として完璧なエンディングだ。やはりこの人は天性の物語作家なのだ。

かくして、萩尾の意図とは逆に、その墓碑銘が書かれた瞬間、大泉サロンは美しい伝説となった。

ジグソーパズルで、大きな欠落のあった大泉サロンの物語は、『一度きりの大泉の話』で、いくつかのピースが埋められたことで完成したのだ。

結果として、それは竹宮が望む形ではなかったが、萩尾は大泉サロンを自らの筆で伝説化したのだ。いや、それはもう神話かもしれない。

 

生身の人間としての萩尾望都が、大泉時代を封印し竹宮惠子と絶縁しようとも、萩尾による少女マンガ回顧に竹宮の名と大泉サロンが記されなくても、革命のワンシーンとしての大泉サロンは消えたりはしない。萩尾が書いた墓碑銘とともに、歴史に刻まれる。

 

*追記

『萩尾望都と竹宮惠子』において、萩尾が東京から「田舎」へ転居した時期について、「1974年」とした。これについては本にも記したが、萩尾関係の資料では確認できず、他のマンガ家の資料から類推したもので、一応の根拠はあった。だが間違っている可能性もあり、萩尾自らが「1973年」と記しているのであれば、それはそれで整合性が取れるので、「1973年」と訂正させていただく。

 

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中川右介

1960年、東京生まれ。早稲田大学第二文学部文芸科卒業。2014年まで出版社アルファベータ代表取締役編集長。映画、歌舞伎、クラシック音楽、歌謡曲、漫画についての本を多数執筆。最新刊に『アニメ大国建国紀1963-1973 テレビアニメを築いた先駆者たち』(イースト・プレス)。その他の主な著書に、『歌舞伎 家と血と藝』(講談社現代新書)、『カラヤンとフルトヴェングラー』『昭和45年11月25日 三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃』(幻冬舎新書)、『山口百恵』『松田聖子と中森明菜』(朝日文庫)、『大林宣彦の体験的仕事論』(PHP新書)等。

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