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美しい暮らし

2019.09.05 更新 ツイート

鉢植えのティラミス矢吹透

静かに暮らしたいと望みました。

丁寧に生きたいと願いました。

長く勤めた会社を、50歳を期に、早期退職しようと決めた時、既に定年を迎え、リタイア生活に入っていた、敬愛する年上の先輩とお話をする機会がございました。

 

会社を辞めて、それで貴方は一体、何をするの?、と先輩は私に訊ねました。

長い旅行に行ったり、本を読んだり、習い事をしたり、やりたいことはいろいろあります。

私がそう応えると、先輩はふぅっと笑いました。

その、貴方のやりたいと言ったことのすべてを、貴方は会社を辞めて、3年でやり尽くすよ。


会社を辞めて、3年10ヶ月が経とうとする今、私はあの時の先輩の言葉を思い返すのです。

旅行にも行きましたし、本も読みました。以前からやりたいと思っていた、フラダンスの教室に通ったりもいたしました。

自分の時間がゆっくりと取れるようになったらやってみたい、と思っていたことの大半を、私はこの4年近くの間にやり尽くしました。

会社を辞めてからの毎日は、私の人生の中で最も充実した、幸福な時間でした。

人と争うこともなく、誰かを蹴落とすこともなく、自分自身とパートナーと愛犬と、私が大切に思う人たちのためだけに時間とエネルギーを費やす人生は、穏やかで心安まる日々でした。

そうして、今、どうする?、これからどうする?、と折に触れ、考えることが、最近、多くなりました。

もっと文章を書きたい、誰かに何かを伝えたい、若い人にいろいろなことを教えたい、テレビやラジオや動画などを利用して、何かをやってみたい。

4年前には考えもしなかった、そんな、新しくやってみたいと思うことが、あれこれと出てまいりました。
 
最近、自分自身がやりたいと思うことに繋がるような、さまざまなチャンスを頂くことも増えて来ました。

ペースは遅々としておりますが、私は今、少しずつでも、前へと進みたいと考えております。


先日、とある雑誌のインタビュー取材を受けました。

「イケてるオジさん」というテーマの特集記事で、「イケオジ」のロール・モデルの一人として登場して欲しい、というご依頼を頂いたのです。

私自身はまったく、イケている、とは言えないような人間ですし、他人様のロール・モデルになれるほど、立派な者でもございません。

けれど、私は、その取材のご依頼をありがたく受けることにいたしました。

取材の日が訪れ、スタッフの方々が、拙宅にお越しになり、インタビューや写真撮影を行いました。

これまでの私の人生に関する、いろいろな質問が投げかけられ、私は、そのひとつひとつに、出来る限り正直に、誠実に答えようと努めました。

頭と心の中にあるものを、なるべく正確に言葉で表現しようとすると、自然と話は長くなり、予定されていた時間をかなりオーバーして、取材は終了いたしました。

スタッフの皆様が帰られた後、私は、憂鬱に似た不思議な感覚に捉えられている自分を発見いたしました。

取材は、スムーズかつ和やかに進行いたしましたので、何か嫌なことなどが起こったりしたわけではありません。

この憂鬱は、一体何なのだろう、と私は考えました。

しばらく考えた後に、思い当たる節がございました。

スタッフの方の質問に答えながら、私は、自らのこれまでの人生を反芻し、それを言葉に表しました。

その作業の中で、きっと、私は気づいたのです。

「イケオジ」というテーマの取材でしたが、私の人生を振り返ってみれば、私は「イケオジ」というよりは、むしろ、「しくじり先生」に近いということを。

失敗ばかりの人生でした。

そして、未だに、失敗を重ねている人生です。

以前、誰かが言っていた言葉を思い出しました。

人生とは、振り返ってはいけないものである。

なぜならば、振り返ってみれば、そこにはただ、後悔しか、見つからない。

本当に、そうだなあ、と私は苦い思いを噛み締めたのです。
 
私は、そして、振り返るよりも、前を向き、一歩でも、二歩でも、進んで行かなければならない、と考えました。

気を取り直し、これからの人生を生きて行こうと思います。


今回、取材にいらして下さったスタッフの皆様に、私はささやかなおもてなしをご用意いたしました。

絵的に面白いデザートとして、折々に私がお客様にお出しするのが、イギリスのシェフ、Heston Blumenthalのアイディアに基づいたティラミスです。

作り方は基本的に、スタンダードなティラミスと一緒です。

1点違っているのは、ティラミスは普通、仕上げにココア・パウダーを振りますが、その代わりに、オレオ・クッキーをミキサーにかけて砕き、粉にしたものを生地の上に盛ります。

盛ったオレオの粉を土に見立てて、そこに、バジル、もしくはミントの茎を差すのです。(オレオの粉を使うのは、日本の作家・料理家である樋口直哉さんが誌されているアイディアです。私は以前、チョコレート・バーのブラックサンダーを砕いて使っていたのですが、チョコレートは冷やすと固まってしまうので、扱い難いところがあり、樋口さんのオレオのアイディアを拝借させて頂くことにいたしました。)

こうして、鉢植えに見立てたティラミスが出来上がります。

取材の最後に、皆様にお出ししたところ、存外に喜んで頂けたようで、少なくともそのことだけは嬉しく思えた、晩夏の午後でした。

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関連書籍

矢吹透『美しい暮らし』

味覚の記憶は、いつも大切な人たちと結びつく——。 冬の午後に訪ねてきた後輩のために作る冬のほうれんそうの一品。苦味に春を感じる、ふきのとうのピッツア。少年の心細い気持ちを救った香港のキュウリのサンドイッチ。海の家のようなレストランで出会った白いサングリア。仕事と恋の思い出が詰まったベーカリーの閉店……。 人生の喜びも哀しみもたっぷり味わせてくれる、繊細で胸にしみいる文章とレシピ。

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