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美しい暮らし

2021.09.20 更新 ツイート

天神下つれづれ日記#18

ちょろい幸せ 矢吹透

絶望も喜びも所詮、脳内物質の分泌の状態であると僕は捉えている。

人生はそもそも面白おかしく作られてはいない。

楽しいことがないと嘆いている人を時々見かけたりするが、この世の中には初めから楽しいことなど存在しないのである。

人が楽しいと感じるのは、脳に時折り、快感物質が分泌されるから。

 

一度その感覚を覚えた人間は、快感物質の分泌を求めて、酒を飲んだり、ニコチンを摂取したり、恋愛に憧れたり、買い物にハマったりする。

言ってみれば、楽しいと感じるのは錯覚のようなもの。

楽しいと感じる前と後とで、あなたを取り囲む世界が大きく変化しているわけではない。

 

僕は一見、楽しそうに生きていると見えるようなのだが、元来、鬱傾向の強いペシミストである。

しかし、脳内物質のコントロールで幸せの体感は変化すると悟ってから、僕はそれを積極的にコントロールしてハッピーに生きようと努めている。

僕はもう何年も前から、精神科医に処方されるドーパミン調整薬を飲んでいる。

気力とか頑張りとか生きる姿勢とか、そういったもので人生が変わると考えている人がいるようだが、僕は個人的にそんなものは信じない。

何年間もひどい抑鬱に苦しんだ僕は、人の憂鬱は気力や頑張りでは改善しないということを知っている。

ドーパミンの分泌状態を安定させる薬を服用する傍ら、僕は折々に酒を飲んだり、買い物をしたり、誰かと馬鹿話をして笑ったり、快感物質が分泌されるような行為を意図的に行う。

僕の人生も、昨今の世の中も、決して素晴らしいものであるとは言えない。そして、それらはそうそう簡単に改善するものでもない。

諦めかけた人間にとって、手近にあって変えられるのは自分自身の感じ方だけなのである。

脳内物質の状態をうまくコントロールすることで、僕は生きる正気を保とうと心がけている。

 

というわけで2ヶ月前、ニューヨークの画廊から1枚の絵を買った。

素敵であると感じるものを手に入れ、それを身近に置いたら、快感物質が分泌されるだろうと目論んだからである。

代金の支払いを終えてしばらくしても、購入した絵がまったく届かない。発送したという連絡さえ来ない。

covid-19の影響下で配送作業に遅延が生じる可能性があると予め言われていたので、僕は辛抱強く待った。

1ヶ月が過ぎた頃から、僕は苛々し始めた。

画廊に続けざまに問い合わせのメールを送った。

来週には発送するからと画廊から返信が来た。

しかし、その週が過ぎてからも、絵は一向に届かない。

だんだんと僕はエキサイトして、いつでもニューヨーク州の弁護士を雇って紛争に持ち込む覚悟はあるから、と書き送ったりした。

それでもなしの礫であった。

先週に発送予定だったが、画廊主の出張が重なり、代わりに手続きを委託されたスタッフがきちんと処理をしなかった、などという無責任なエクスキューズが返って来るばかりだった。

詐欺に引っかかったのではないかと僕は本気で疑い始めた。

運よくカードで支払いをしたので、いざとなったらカード会社を通して支払い差し止めと還付請求の訴えをしようと心の準備をした。

そんなすったもんだの挙げ句、十日ほど前にようやく問題の絵がニューヨークから我が家に到着した。

折角、快感物質の分泌を求めて購入した絵のために、かえって精神的にアップダウンを強いられ、僕はすっかりくたびれてしまった。

まあ、手元に届いた絵は気に入っているのだが、期待したほどの喜びの体感が薄い。

残念。

 

そんなこともあって、なんとなくぱっとしない僕の最近の心持ちを慮り、友人が御殿場のアウトレットへと誘ってくれた。

友人の運転する6シリーズのBMWでぶーんと御殿場に出かけた。

アウトレットの膨大にある店舗の中からハイブランドのショップにしか入らない、と僕と友人は予めルールを決めて行った。

高価でゴージャスな服や靴を次々に手に取っては、試着したり、あーだこーだ言って、結局、数時間後、僕は何も買わないまま、御殿場を後にした。

それでも十分、気分がすっとした。快感物質が分泌された。

広いアウトレットを歩き回ったせいもあってか、その晩はいつになくよく眠れた。

それからの数日間、僕は迷った末に購入を見送ったヴェルサーチェのシルクのシャツやマルジェラのコート、ドルガバのパンツのことを思い出しながら、その余韻に浸って幸せに過ごした。

僕の幸せなんて、それくらいちょろいものである。

 

御殿場からの帰り道、僕と友人は理想的な人生の終わらせ方について話し合った。

俺なら、東京の生活をすべてきれいに整理して、皆にさよならを言ってから、バンコクあたりの安モーテルで、パスポートや身元のわかるものはすべて処分し、目張りをしたバスルームで練炭を焚くかなあ。

僕がそう言うと、…うん、悪くないかも、と友人は呟いた。

悪くないよね、と僕は言って、それから僕らは黙り込み、古いフィル・コリンズの歌を聴きながら夕暮れの東名高速を東京に向かって飛ばした。

 

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味覚の記憶は、いつも大切な人たちと結びつく——。 冬の午後に訪ねてきた後輩のために作る冬のほうれんそうの一品。苦味に春を感じる、ふきのとうのピッツア。少年の心細い気持ちを救った香港のキュウリのサンドイッチ。海の家のようなレストランで出会った白いサングリア。仕事と恋の思い出が詰まったベーカリーの閉店……。 人生の喜びも哀しみもたっぷり味わせてくれる、繊細で胸にしみいる文章とレシピ。

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