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美しい暮らし

2021.05.05 更新 ツイート

天神下つれづれ日記#9

82歳の引っ越し大作戦 矢吹透

去年の12月に母が亡くなった。

82歳の父が独り残された。

 

父には、2人の子がある。都内に暮らす55歳の僕と神奈川に住んでいる2歳上の姉の2人である。僕も姉も独り者。但し、僕は同性のパートナーと暮らしている。

僕は5年前に会社を辞め、自宅で細々と文章を書きながらのんびりと暮らしている。姉は司書として働いている。サービス業ということもあり、姉は土日勤務も時折りあって、忙しくしている。

父は母を亡くし、若干心細くなったらしい。

実家と姉の住まいは電車で3駅の近さなので、母が亡くなってから、姉は週末に父の洗濯物などをピックアップし、洗っては届けがてら、父の様子を見に通うようになった。

僕は毎週、一週間分のお惣菜を作って、実家へ行き、父の冷蔵庫をいっぱいにして帰るということを始めた。

父にとっての最大の心配事は、自分が急死した時、何日も遺体が発見されないままになる可能性についてだった。

少なくとも2~3日、長ければ1週間近く、自分の死が気づかれないまま放置されてしまう可能性だってあるのではないかと父は言った。

そうして父は転居について考え始めることになった。

3つの選択肢が考えられた。

いわゆる老人ホームに入ること。姉のマンションの近くに引っ越すこと。僕のマンションの近くに越すこと。

父はまだ、自分の身の周りのことは自分で出来る。足腰もしっかりしている。だから、まだ老人ホームにお世話になるような段階ではない。そして、老人ホームでは生活がいろいろと制限されることになるだろう。

姉の暮らす近所か、僕の近所に引っ越すという2択になる。

先に述べたように姉は忙しく働いている。自宅マンションに戻るのはいつも遅い時間で休みは週末だけである。対して僕は基本的にずっと自宅にいるし、家事は得意分野でもある。僕のパートナーのキヨテルくんは介護福祉士の国家資格を持つ介護のプロフェッショナルだ。

あれこれと考えたであろう末、父は僕に、僕とキヨテルくんが暮らすマンションに別部屋が空いていないか探してくれと言って来た。

賃貸物件でも購入物件でもいいと父は言った。購入する場合は、実家を処分する資金を充てればいいと父は考えたようだ。

僕は賃貸を勧めた。82歳の父が新たな不動産を購入するという冒険や、父が亡くなった後に残されたマンションを処分する僕や姉の労力などについて考えると、賃貸の方がよいのでは? と父に進言した。

じゃあ、賃貸にしようと父は言った。

僕のマンションの賃貸の空き室を探した。空いている部屋が1室あった。とある週末、父と姉と僕と3人でその部屋を見に行った。北向きだが窓からの眺めがよく、父はこの部屋に決めると言う。

申込みをしようとして僕らは壁にぶつかることになった。

82歳無職の父には部屋を貸すことは出来ないと先方が言う。定職のない僕にも賃貸物件を借りることは出来ない。我が家で部屋を借りることが出来る条件を備えているのは姉1人だった。

では、姉の名前で借りようかという話になった。しかし、姉の名前で賃貸契約を結び、そこにこっそりと父が暮らすというのは、契約違反として訴えられたら即退去につながる行為である。

自分の名前では賃貸物件を借りることが出来ないという現実に父はがっかりし、そんな世の中に憤慨し、そしておそらく傷つきもしたのではないだろうか。

貸してもらえないというのであれば、購入するしかないと父は言い始めた。

これまでの蓄えや実家を売却する代金で購入資金は賄えるはずだと父は言った。

そうして僕らは購入物件を探し始めた。

すぐには見つからなかった。

不動産業者にオファーを入れて気長に待つしかないよと僕は父に言った。僕の暮らすマンションは400戸の大所帯である。待てばそのうち空きが出る。

そうだな、そう急ぐこともないと父は言った。

僕は折々にネット・サーチをして市場に出ている売却物件を探した。

探し始めてからそう経たないある日、僕のマンションの2室が市場に出ているのを発見した。

急いで不動産業者に連絡を入れると1室はもう契約が決まっていた。残っていたもう1室を父と一緒に内見し、直ぐにオファーを入れた。

想定よりはやや高めの価格設定だったが、父はそれでもいいと言う。

確かに、父に残された時間、人生のQOLについて考えると、もっと安い物件が出るのを待っている余裕はないかもしれないと僕も考えた。

まあ、それから紆余曲折があったが、父はとりあえずその部屋を購入できることになった。

部屋はリフォーム済みを渡すので、引き渡し時期は改装を済ませた3ヶ月後になると先方から言われた。

それから父の引っ越しの一大プロジェクトがスタートした。

実家を整理し、売却する手筈を整えなければならない。

40年近く僕ら一家が暮らした一軒家にはとにかく物がいっぱいで、一体何から手をつければいいのか僕は途方に暮れた。

片っ端から捨てればいいんだと父は言った。

コンパクト・リーズナブル・手軽、が自分の信条であると父は言った。

そうだねと僕も言った。片っ端から捨てよう。

とはいえ何か大切なもの、残しておきたいと思うようなものだってあるかもしれない。とりあえず全部チェックして、要らないものはきっぱりと捨ててしまおう。

そうして押し入れの中や箪笥の中、納戸や物置の中などを全部ひっくり返して、要・不要の物の選別を始めることになった。

それはやってもやっても終わりの見えない作業で、僕はしばしば絶望感に打ちのめされそうになった。

僕は週に2~3度、往復3時間かけて実家へ通い、分別と廃棄の作業を続けた。母の末妹である叔母のスミちゃんが時々、僕につき合い、作業を手伝ってくれた。姉は週末ごとに自分のマンションへと引き取るものを分別し、車で運んだ。父もこまめにあれこれと捨てて、自分の引っ越し荷物をまとめ始めた。キヨテルくんは時々、僕の実家への往復を車で送り迎えしてくれた。

家族総出でこの作業に凡そ2ヶ月はかかったと思う。途中で、あまりに膨大な廃棄物で家の中がパンク状態になったので、廃品業者に二トン車いっぱい運び出してもらい、残りの作業のためのスペースを確保した。

ありがたかったのは父とスミちゃんの存在である。古い壺や絵、器など、その価値や思い出について僕や姉にはまったく判断のつかないものがたくさんあった。僕ら姉弟2人だけが残され、この作業をしなければならなかったとしたら、もう全部捨てる以外に出来ることはなかっただろう。

押し入れや抽斗の奥から出て来るあれこれに関して、父やスミちゃんに記憶を掘り起こしてもらい、残すべき価値があるかどうかという判断や指示を仰げたことはとても大きかった。

実家の整理と並行して、父の新居の準備も進めなければならない。持って行く古い家具や絨毯をクリーニングしたり、クッションを新調したり、新たに必要なものについては発注をかけた。

新居の購入・実家の売却に関して、不動産業者との煩雑なやり取りや契約作業のもろもろだってある。

引っ越しについては業者の選定、電気・水道・ガス・その他の停止とスタートなどについてもアレンジしなければならない。

これらはとても、82歳の老人が1人で出来るようなボリュームの作業ではない。

僕が定職も持たずふらふらしていることを亡くなった母は日々嘆き憂いていたが、そんな人間が家族の中に1人いたからこそ、今回の父の転居プロジェクトは成り立ったというところが確かにあるだろうと父自身が言う。

透は、シニアのための転居コーディネーターとかアドバイザーとかを商売に出来るんじゃないか? と父は真顔で僕に言う。

いやだよ、こんなこと商売になんかしたくないよ、父のためだからやっているけど他の人のためになんて真っ平ごめんだね、と僕は父に答える。

父の引っ越しまで残り2週間を切った。

やれることはほぼすべてやった。

新しく快適な環境で父がハッピーに暮らす日もそう遠くない。

82歳の父と55歳の僕と32歳のキヨテルくん。男3代が寄り添って、力を合わせて暮らして行く新しい生活がもうすぐ始まる。

もうすぐ明け渡す実家前で記念写真(キヨテルくん撮影)

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 日々を丁寧に慈しみながら暮らすこと。食事がおいしくいただけること、友人と楽しく語らうこと、その貴重さ、ありがたさを見つめ直すために。

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矢吹透

東京生まれ。 慶應義塾大学在学中に第47回小説現代新人賞(講談社主催)を受賞。 大学を卒業後、テレビ局に勤務するが、早期退職制度に応募し、退社。 第二の人生を模索する日々。

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