辛いことや苦しいことがあっても私たちは生き続ける。人生に目的はあるのか。あるとしたらそれは何か――。20年の時を経て名著『人生の目的』が新書版に再編集され復刊。いまの時代に再び響く予言的メッセージ。
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人間としての共通の運命
では人は運命にすべて支配され、その星の下(もと)でただ川に浮かぶちりのように流されてゆくだけなのか。私はそうは思わない。いや、思いたくないと言ったほうが正直だろう。
ここでもう一度、中村元(はじめ)さんの『自己の探究』(青土社・一九八八年刊)の中の言葉にもどってみる。中村さんは《運命と宿命》という章のなかで、運命という言葉をとりあげてこう語られていた。
すなわち、運命とは避けることのできないものである。西洋では神が人びとの運命を支配すると考えていたらしい。中国には〈天命(てんめい)〉という考えかたがあった。人の意志や個人の希望に関係なく、見えない大きな力が人間にはたらいているとするのである。
しかし近代の文明は、その出発点において明るい未来を予想したので、近代人はひとつの不遜(ふそん)な思いあがりを心に抱くようになった。すなわち「意志の自由」によって、私たちは人生を自由に切りひらき、大胆に変えることができると考えたのである。すなわちつよい意志と、たゆまぬ努力をつづけさえすれば、人は必ず自分の人生を望む方向へ築きあげることができる、と信じたのだ。信じて最後までたたかう、そのことによって運命の重荷は、はねのけることができると考えたのだった。
だが、人間は決して無制限に「自由」ではない。社会制度が近代化され、改革されても、人間にはどうにもならない運命がある、と中村さんはいう。私たちが人間として生まれ、この地球上に「生きている」こと、それ自体が、ひとつの逆らえない私たちの運命ではないのか、と。
私たちはその点で、すべて共通の運命を背負っている。もし核兵器が思わぬ暴発(ぼうはつ)をひきおこせば、地球上の人類全員の生命が危険にさらされるだろう。世界の気温が何度か上昇(じょうしょう)して、極地の氷床(ひょうしょう)や高山の氷河がすべて溶ければ、地上の多くの国や都市のなかには水没してしまうところもあるだろう。その意味では、私たちはばらばらの他人であってもひとつの〈運命の共同体〉の仲間である。つまり同じ運命によって結ばれた家族の一員であるといってもよい。
しかし、その一方で、個人はあくまで個人として生まれ、生きる。そこでは地上の誰ともちがう、ただひとりの自己として存在しているのだ。それゆえにその個人もまた、それぞれに異(こと)なった運命の道をあゆまざるをえない。
たしかにそう考えてみれば、そのとおりだ。この私は人類の一員でもあり、また同時に、世の中の誰ともちがう個人なのである。その意味で私たちは二重の運命を背負っているといえるだろう。
では、そのような〈運命〉は、私たちをしばりつけ、支配するだけの鉛(なまり)のような重圧にすぎないのだろうか。私たちにとって運命は呪(のろ)うべきものであって、不幸のもとといえるような悪(あ)しき存在なのか。
人生の目的
人生に目的はあるのか。あるとしたらそれは何か――。お金も家族も健康も、支えにもなるが苦悩にもなる。人生はそもそもままならぬもの。ならば私たちは何のために生きるのか。
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