
秋が深まり、ボジョレヌーボーという声があちこちから聞こえてくると、ワインも好きだけれどそれ以上に、今年も鴨の季節がやってきた! と、わくわくする。鴨猟をする友人がいて、ボジョレと前後する解禁日以降、鴨料理の夕餉に招待してくれるのだ。個体によって味が異なることはあるけれど、基本的にものすごく美味しい。肉に生命としての力強さがあるし、食べたあとはなんだか元気になる。「獣」との私自身の付き合いは、そのくらいだ。もちろん、狩猟はしない。免許を取ろうと思ったこともないし、近場の山で知人の鹿猟に付いて何時間も山を歩いたことはあるけれど、成果無しだった。狩猟には縁がないのかもしれない。
しかし、世の中には縁深い人もいる。まさに、本書の著者はそのひとり。でも、本人が狩猟をするわけではない。写真家の著者は、ライフワークとして出産と狩猟に関する撮影をしている。そして、3人の子どもの母親として賄う日々の食卓には、頻繁にシシ肉料理が並ぶ。それは、2011年に東京から家族で縁もゆかりもない長崎に引っ越し、少ししてから始まった日常だ。近所で度々見掛ける派手なシャツを着たおじさんに、思い切って話しかけると、そのおじさんは地元の猟師だった。それがきっかけとなり、おじさんが罠猟で獲ったシシ肉をわけてもらうようになる。スーパーに並んだ精肉に慣れている普通の主婦なら、シシ肉のブロックをもらっても途方にくれるかもしれない。でも、著者はその肉をありがたく頂戴し、塊と向き合い料理をし、家族も「美味しい」と食べた。そのうちに著者は猪を獲るところを見たくなり、おじさんに狩猟の現場への同行を願う。初めて写真に撮ったその日のうちに、なかば興奮しながら家族に見せると、8歳の次男までもが現場に行きたいと言い、今度は家族5人総出でおじさんに同行することに。
あまりに物事が滑らかに進んでいくので、書かれていることを、こちらもするすると飲み込んでしまう。でも、ページを捲る手を止めては、実はすごいことだよね、と一息つきながら確認する。というのも、それは獣を殺す現場であるからだ。やはり「殺す」を目の前にすると、その肉を食べることが目的であっても罪悪感を含めた複雑な感情が湧き起こる。著者も、子どもたちに、すべてではないにしろ、見せることを躊躇する。しかし、おじさんが獲ったシシ肉をずっと食べてきているからか、子どもたちは冷静に受け止める。
生きるためには、肉でも魚でも植物ですら、その生命を奪って食べることになる。命の循環を、身近に感じとることができる彼らの日常は、なんと贅沢なことだろうか。そんな日常を家族と自然に共有する著者の姿には、ひとりの母親として尊敬の念すら覚えるのだった。
「小説幻冬」2020年11月号
本の山

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