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私と本棚

2021.04.19 更新 ツイート

#8

ソ連時代の忘却から作家を蘇らせたのは本棚の力 上田洋子

領域横断的な「知のプラットフォーム」を提供する出版社「ゲンロン」の代表を務める上田洋子さんは、ロシア文学者であり、ロシア語の翻訳者。会社代表と研究生活の両立は、なかなか大変なようで、まずは自宅の図書館化を目指しているそう。念願の作り付けの本棚も実現し――。

本の重さが心配で半地下の部屋へ引っ越し

 

モスクワに「ファランステール」という書店がある。トヴェリ通りという赤の広場から続く目抜き通りを、プーシキン広場の手前で左に曲がり、何軒めかの建物の中庭へと続く通路を入る。途中にあやしげなドアがある。ドアを開けて階段を上ると、本がやや乱雑に、ぎっしりと並んだそっけないフロアに出る。ここがファランステール。本好きのユートピアだ。

つい最近、この書店が2020年1月に道路を隔てた斜向かいの地下に引っ越していたのを知った。コロナで一年以上ロシアに行けないうちに…… ほぼ毎年通っていた場所だけに、若干ショックである。だが、地下という空間は、この、フーリエが提唱した共同体住居の名を冠する書店にはふさわしいのかもしれない。

ドストエフスキーの『悪霊』でも書かれているとおり、革命運動には地下出版がつきものだ。運動家たちは印刷機を手に入れて、パンフレットやアジビラを印刷し、ばらまいていた。そういえば、現代のアクティヴィスト、マリヤ・アリョーヒナの手記『プッシー・ライオットの革命』(邦訳はDU BOOKS)のロシア語版も、たまたまここで平積みになっていたのを手に入れた。わずか1000部の自費出版だ。

日本だと大きな本屋は品揃えがいいが、ロシアではそうでもない。だから、人文書なら人文書の専門店に行くのがいい。ファランステールには、少部数の詩集や自費出版の本、もはや他では手に入らない古い画集などもまぎれていて、宝探しのようだ。帰国時のスーツケースはいつも本だらけになる。

わたしはもともとロシア文学・演劇の研究者である。2011年の春まで早稲田大学演劇博物館の助手を務め、その後は非常勤講師と通訳・翻訳の仕事をしながら大学の公募に挑戦していた。それが2013年の末、たまたまあるトークショーで東浩紀と知り合った。そして彼が当時企画していたチェルノブイリ取材のコーディネートの依頼を受けた。それから東の出版社ゲンロンを手伝うようになり、気づけばゲンロンの代表になっていた。おかげで研究と通訳や翻訳の仕事にかけられる時間は激減した。図書館にもなかなか行けない。だが、とにかく本は買い続けている。読める読めないに関わらず本を増やすことで、家を図書館化しようとしているのかもしれない。

二年ほど前、半地下の部屋に引っ越した。一番下の階を選んだのは、蔵書が多いからだ。かつて、研究者の先輩方に、本の重さのせいで家の床が抜けたという話を聞かされたことがある。それ以来、万が一の可能性を考えずにはいられないのだ。このときの引っ越しでは、長年の夢だった天井までの作り付けの本棚がついに実現した。
 

それにしてもロシア語の本には思い入れのあるものが多い。どこかの本屋でたまたま見つけたり、ずっと探していたものを手に入れたり。いただいた本も少なくない。ロシア・アヴァンギャルドの専門家・水野忠夫先生が大学を退任されたときには、当時わたしが演劇博物館にいたご縁で、演出家メイエルホリドの研究書を何冊か譲り受けた。ちょうどこの演出家の展示を企画しており、水野先生から引き継いだ、すでに線の引いてある本で勉強した。本から漂うタバコの匂いをよく覚えている。今も大切な本たちだ。

シギズムンド・クルジジャノフスキーという、舌を噛みそうな名前の作家に『文字殺しクラブ』(1926年)という未邦訳の中篇がある。あらすじはこうだ。やむを得ない事情で本を売ってしまった無名の作家がいる。彼は空っぽになった本棚に耐えられず、かつてそこに置かれていた本と、それらの頁に文字で書かれた物語を、記憶と想像の力で埋め合わせようとする。そのうち本棚には実体をもたない架空の本が並び、気づけば彼自身が人気作家になっていた。

やがて本棚に物理的にも本が回復すると、彼は才能の枯渇を感じはじめる。そして、ヒット作を書いていた頃の感覚を取り戻すため、家に空っぽの本棚の部屋を作り、そこに週に一度知人を数名集めて「文字殺しクラブ」の会合を開く。クラブの参加者は、そこで自作の物語を語り、語られた物語で空っぽの本棚を埋めねばならない。その際、メモを見ることはできない。この部屋に文字を持ち込むことは決して許されないのだ。

本棚が主役ともいえるこの作品の背景には、クルジジャノフスキー自身が、さまざまな理由から本を出版できず、発表の機会が朗読にほぼ限られていたという状況がある。死後40年近く経ったソ連時代末期に、国立文書館に収められていた手稿を元に、単行本の刊行がはじまった。わたしは20世紀が終わる頃にこの作家の作品に触れたが、その頃にはすでに作品集が3冊出ていた。その後、全集も刊行された。

クルジジャノフスキーの作風にはソ連らしさがない。おそらくそれが、彼の作品が生前から忘却にさらされた理由だろう。そして、ソ連が終焉に向かうと本という身体を得て復活した。わたしも参加した『瞳孔の中』(松籟社)を含め、邦訳も3冊出ている。

本は時間と空間を超えて、様々な著者や著作と出会わせてくれる。わたしの本棚にはまだ読めていない本がどっさりある。コロナ禍で旅に出られない今は、本棚を見、本を読んで、想像上の旅で人生を満たすしかない。少しは研究も進められるかもしれない。

*   *   *

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コロナ禍で明けた2021年。生活が変わり続けるなかで頼りにしたい私と本と本棚の話。

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上田洋子

1974年生まれ。ロシア文学者、ロシア語通訳・翻訳者。博士(文学)。ゲンロン代表。早稲田大学ほか非常勤講師。著書に『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド 思想地図β4-1』(調査・監修、ゲンロン、2013)、『歌舞伎と革命ロシア』(編著、森話社、2017)など。翻訳書に『瞳孔の中 クルジジャノフスキイ作品集』(共訳、松籟社、2012)、展示企画に「メイエルホリドの演劇と生涯:没後70年・復権55年」展(早稲田大学演劇博物館、2010)など。

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