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2021.05.24 更新 ツイート

#10

校正者は本棚を持って出かける 牟田都子

校正者とは、誤字脱字はないか、文法は正しいか、前後で意味の齟齬はないか、などさまざまに文章をチェックする仕事。でもいったいどんなふうに調べているのでしょう? フリーランスで書籍の校正を担う牟田都子さんの仕事と本棚を覗くと見えてくるものがありそうです――。

言葉にたったひとつの正解はないから

 

本の校正という仕事をしているわりに、自宅の本棚は小さいほうだと思う。仕事で読み仕事を離れても読んでいるから本はどんどん増える。壁一面の本棚や書斎に憧れるが、都会のささやかな賃貸マンションの一室ではむずかしい。読み終わった本はなじみの古書店に引き取ってもらい、仕事で入り用な本は図書館や書店を頼る。

自分で持っていなくてもいいと思うようになったのは、20代の頃図書館で働いていたからかもしれない。校正について調べるなら「芸術・美術」の書架で「印刷」の本の中から「749.13」の分類ラベルが貼られた本を探せばいい、という具合に資料の探し方を覚えた。個人で所蔵するのはむずかしい高価な美術書も大部の全集も揃っている。図書館で手に入らない本は書店や古書店で取り寄せる。いまはインターネットから所蔵や在庫を検索できるから、図書館や書店を自分の本棚のように使うことも容易になった。

そうはいっても手放せない本がある。辞書だ。

10年勤めた出版社の校閲部では、天井まである高さの本棚丸々一本が国語辞典で埋まっていた。言葉を扱う仕事だから国語辞典が必要なのはわかるが、どうしてこんなにたくさん、とはじめは不思議だった。

雨模様という言葉がある。これを「雨が降っている様子に使うのは誤り」だという文章を見かけた。たしかに『広辞苑』には「雨の降りそうな空の様子」とあるから、「もう降っている」のではなく「まだ降っていない」のだろうか。同じ岩波書店の『岩波国語辞典』は「雨の降る様子を言うのは誤用」と断定している。

やはりと納得してしまいそうになるが、ここで新しい言葉や用法を積極的に載せている『三省堂国語辞典』を引いてみると「1 雨の降りそうなようす」「2  小雨が降ったり やんだりする天候」とある。まだ降っていない/もう降っている、どちらの意味でも使えるというのだ。昨年12月に改訂されたばかりの『明鏡国語辞典』は「2」の意味を「新しく生まれた語や意味」とわざわざ断って載せている。2対2、拮抗している。

さらに意見を求めるべく、頻繁な更新が強みの『デジタル大辞泉』を見ると「『雨が降りそうな様子』の意味で使う人が43.3パーセント、『小雨が降ったりやんだりしている様子』の意味で使う人が47.5パーセント」という文化庁「国語に関する世論調査」の結果を載せている。世間的にも「降っていない」派と「降っている」派がほぼ半々であることが、数字によって裏付けられている。

新聞の校閲記者はゲラに「雨模様」が出てくるとすぐさま「実際の天気を確認する」そうだ。小説では「実際の天気」は著者の頭の中にしかない。野暮を承知で「雨はもう降っていますか、まだ降ってはいませんか。説明を補いますか」と尋ねることになる。著者は「降っている」つもりで書いていても読者には「降っていない」と受け取られることがあるからだ。「雨模様と書いたのだから降っているに決まっているじゃないか、日本語の読めないやつだな」とお叱りを受けるのは承知の上。因果な仕事だと思う。

「雨が降っている様子に使うのは誤り」という文章への校正的な「回答」は、「誤りとする辞書もありますが、そうでないとする辞書もあります」ということになるだろうか。歯切れが悪い。しかし、辞書はわかりやすい「正解」だけを載せているものではない。時代によって揺れ動く言葉の一瞬の側面を切り取ったもの、といえば実感に近いかもしれない。だから世にこれだけの数の国語辞典があり、改訂され版を重ねているのだ。言葉に唯一の正解しかないのなら、辞書はひとつあれば済む。

1冊引いても答えが出なければ2冊引く。何冊でも引く。納得がいくまで引く。ここでいう「答え」とは「正解」ではなく「自分なりの結論」だ。辞書を引くというのは考えるということで、引きながら考えている。相談しているといってもいいかもしれない。自分ひとりのものの見方、知識などたかが知れている。だから辞書を頼る。

頼れる相手は多いほうがいいから、せっせと辞書を買ってしまう。場所ふさぎなことこのうえないのだが、辞書が増えれば良い校正ができるような気がする(錯覚かもしれない)。

最近は新しい辞書の発売と同時にスマートフォン用のアプリがリリースされることも増えてきた。先に書名を挙げた辞書はどれもアプリ版がある。アプリならいくつあっても場所を取らない。置き場所の悩みから解放されると、これまで泣く泣く手放していた古い版だって残しておける。校閲部の書庫には『広辞苑』が初版からずらりと並んでいた。時代とともに意味を変えていった言葉、姿を消した言葉を探して何度助けられたかわからない。

いまどき外出するのにハンカチや財布を忘れてもスマートフォンは忘れない。スマートフォンに辞書アプリを入れるということは、どこへ行くにも辞書を持ち歩くということだ。ポケットの中に私の本棚がある。どこへでも一緒に行ける。

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コロナ禍で明けた2021年。生活が変わり続けるなかで頼りにしたい私と本と本棚の話。

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牟田都子 校正者

1977年東京都生まれ。出版社の校閲部に契約社員として勤務したあと、独立。フリーランスの校正者に。関わった本は、『本を読めなくなった人のための読書論』(若松英輔、亜紀書房)、『ブスの自信の持ち方』(山崎ナオコーラ、誠文堂新光社)、『ブードゥーラウンジ』(鹿子裕文、ナナロク社)、『NHK出版 学びのきほん はみだしの人類学 ともに生きる方法』(松村圭一郎、NHK出版)、『ヤクザときどきピアノ』(鈴木智彦、CCCメディアハウス)ほか多数。共著に『本を贈る』(三輪舎)、『あんぱん ジャムパン クリームパン 女三人モヤモヤ日記』(亜紀書房)。

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