
国賊
「大正昭和期になって、浮世絵の価値がヨーロッパから日本に逆輸入されると忠正は『浮世絵を海外に流出させた国賊』と言われるようになりました。2000年代に入ってからもまだ、『あんな国賊は』と私の面前で言う人もいたほどです。日本の美術関係者にとっては、日本で二束三文で仕入れた浮世絵をヨーロッパで高値で売ってぼろ儲けした商人として、許せないという感情が根強かったんです」
あとで調べてみると、忠正は浮世絵を本格的に扱うようになった1890年からの約10年間で、実に15万6487枚の浮世絵と約1万冊の絵本類をパリに送っている。(「浮世絵の輸出」渋井清、「三田文学」昭和14年2月号)
忠正が仕入のために帰国するという知らせがくると、それだけで古物商の扱う浮世絵の相場が値上がりし、通常30~40銭の歌麿や清長が3~4円になったとも言う。それだけ高値で買い占めたのだ。
その数字が一人歩きしてしまったのか、木々氏が見せてくれた1964年、前の東京五輪開催時の新聞には、こんな記述があった(「日経新聞」1964年10月13日)。
「浮世絵・風俗画名作展開く、57絵師の代表作300点、海外分散の名作100余点も里帰り」。世界97カ国が参加して華やかに東京五輪が開かれていたこの時、日本経済新聞社と日本浮世絵協会は共催して「浮世絵・風俗画名作展」を東京白木屋で開催した。そこにはこう書かれている。
「(ジャポニスムの)そのころ、わが国ではいまは何百万円もする歌麿や写楽の名作もほとんど顧みられることなく、タダ同然の値段でパリあたりに輸出された。パリにいた林、若井某などという一部日本人が中心となって、組織的に日本で買い集め、それこそ天文学的数字の浮世絵を送り出したのである」
若井とは、忠正が最初に働いた起立工商会社の上司で、のちに手を組んで「若井・林商会」を開いた若井兼三郎のこと。一流新聞の1面の記事にフルネームでなく「某」と書かれるほど、忠正の評価は地に落ちていたのだ。
後日、「北斎とジャポニスム展」を開催中の国立西洋美術館に馬渕明子館長を訪ねても、こう語った。
「忠正の故郷、富山県高岡市立美術館の館長だった定塚武敏さんが1972年に『画商 林忠正』、81年に『海を渡る浮世絵』という本を出版します。その後木々さんが忠正関連の書物を何冊か書いてその業績と復権を訴えるまで、忠正は国内、特に日本画の関係者や研究者からは浮世絵を海外に散逸させた極悪人と思われていました。まだそのころは国内では「ジャポニスム」も意識されていませんでしたし、浮世絵と印象派の画家たちとの交流も知られていなかった。1988年にオルセー美術館と国立西洋美術館が「ジャポニスム展」を開催するにあたって、私も改めてジャポニスムを学びました」
知られざる北斎

長澤まさみさんが主演する映画『おーい、応為』が話題です。
モネ、ゴッホを魅了し、西洋で「東洋のダ・ヴィンチ」と称された葛飾北斎。
その名を世界に広めた画商・林忠正、そして晩年を支えた小布施の豪商・髙井鴻山。芸術と資本、江戸と西洋が交錯する中で創作に生きた画家の生涯を描いた書籍『知られざる北斎』もあわせてお楽しみください。本書から一部を抜粋してお届けします。
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