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知られざる北斎

2018.04.07 公開 ポスト

北斎の誕生(4)

作品数は約3万4000点!画狂人・北斎の信仰とは神山典士

「神奈川沖浪裏」「北斎漫画」などで知られる天才・葛飾北斎。ゴッホ、モネ、ドビュッシーなど世界の芸術家たちに多大な影響を与え、ジャポニスム・ブームを巻き起こした北斎とは、いったい何者だったのか? 『ペテン師と天才 佐村河内事件の全貌』で大宅壮一ノンフィクション賞(雑誌部門)を受賞した、気鋭のノンフィクション作家・神山典士さんが北斎のすべてを解き明かす『知られざる北斎(仮)』(2018年夏、小社刊予定)より、執筆中の原稿を公開します。(前回まではこちらから)

「濤図(なみず)」の「男浪・女浪(おなみ・めなみ)」一対

北斎狂人伝説

貧窮人の商いと言われる唐辛子売りに身をやつしても、画法の修業だけは怠らなかった北斎。名が上がるに連れて、五月幟を注文する客人が現れたエピソードが、1893年(明治26年)死後約40年たって飯島虚心によって初めて書かれた「葛飾北斎伝」に描かれている。


この頃魔よけの呪いとして「鐘旭(しょうき)」の絵を描くのが江戸の習わしであり、朱描きにすることで子どもの疱瘡よけと信じられていた。とある客人からのそのオーダーに、北斎は喜んで朱を溶いて鐘旭を描く。


目をカッと見開き正面を見据え、身体をグイと倒し左足に体重をかけたその雄姿。気迫に満ちた鐘旭像が生れた。


完成度の高さに客人はとても喜び、二両の代金をくれたという。


二両! 当時は侍の最低の給料が三両と言われた時代。江戸期平均で1両=6.6万円と言われているから、いまでいえば20万円程度か。その3分の2を一枚の絵で得られたのだから、唐辛子売りの北斎には嬉しかった。


のちに北斎は、金に頓着がないことで有名だった。地本問屋が画料を持ってきても袋のまま机の上に放り投げておき、借金取りがやってくるとそのまま渡す始末。だが初めて二両をもらったこの時ばかりは金の入った包みを前に、しばし見とれていたという。


この時を機に、北斎の生活は一変したと言われる。


―――売れぬ食えぬの心を抱いて描く絵では初めから問題にならぬ。知らず知らずに売るための絵を描いていた。売るための絵を描いてはならぬ。売れる絵でなければ。世間の眼は正しいのだ。


以降北斎は朝まだきから絵筆をとり、人の寝静まるまで描き続けた。日々画法の工夫を重ね、腕がなえ眼が疲れ果ててからようやく絵筆を置き、蕎麦を二杯すすって眠りに就く。


酒も煙草も茶すらも口にしない。本所柳島にあった妙見菩薩を信仰するようになり、39歳の時に北斎辰政と号を変えた。


妙見菩薩は仏教における天界に住む天界神の一人で、北辰妙見菩薩とも呼ばれる。中国で北極星信仰と習合して日本に伝来した宗教だ。中国の星宿思想から北極星を神格化したもので、これ以降北斎が名乗るさまざまな名は、この思想に根源がある。


以降北斎は、道を歩くときは常に法華経の呪文を唱え続けた。


「この呪文を唱えていれば道で知ったひとに会っても眼に入らない。まったく奇妙なことだ」と北斎は言った。道端で人と立ち話や雑談をすることが、とにかく煩わしいのだ。


以降北斎はその号を変えること30数回。引っ越しは生涯で90数回を数える。


不染居、辰政、錦袋舎、画狂人、画狂老人、九々〇、雷震、戴斗、鏡裏庵梅年、天狗堂熱鉄、月〇老人、為一、卍、卍翁、所随老人、百姓八右衛門、三浦屋八右衛門、乞食坊主卍、土持仁三郎等々。


その理由を尾崎は、


「これらの改名も結局は、北斎の信仰に基するとみる」と書いている。


引っ越しは、掃除をする習慣がなかったゆえ。部屋が散らかって創作作業がどうにもならなくなると、近くの空き家に引っ越したと言われる。

作品の多彩さ

この絵筆一筋の生活を40歳から半世紀続けた北斎は、生涯でおよそ3万4000点という膨大な作品を残した。単純計算しても、一日約2点を50年間描き続けたことになる。


しかもその種類が多彩だ。


「北斎漫画」に描いたのは人間のあらゆる動きや筋肉の躍動、歴史上の人物、虫や鳥、草花、建物、仏教道具等、森羅万象あらゆるもののデッサン(総数3191)。浮世絵では美人画、相撲絵、役者絵といった人物画。富士山や瀧、橋の連作に見られるような風景画。妖怪、像、虎、龍など想像上の生物。波、風、雨といった自然現象。そしてもちろん春画。


その画法も浮世絵(版画)でも肉筆画(一枚絵)でもなんでもござれ。西洋の遠近法を使った西洋画も残し、油絵やアラビアガムを使った水彩画も描いている。


描く媒体も薄っぺらい黄表紙や上等な小説が書かれた読本の挿絵。当時の流行作家・曲亭馬琴の小説に北斎が挿絵を描いた草双紙合巻。40歳頃から書き出し、のちに「水の画家」としての評価の走りとなった狂歌本等々。


50代の前半までにあらゆる挿絵を絵がきつくした北斎は、52歳の時に絵手本「略画早指指南」を出す。


「画にことごとくその法あり。されどおこるところは方円をでず」


画は円と角とで表現できるから、定規とコンパス(ぶんまわし)があれば全ての物を表現できると説いている。絵手本は、すでにこのころ増えてきた弟子のためのお手本集だ。その後延べで14冊以上の絵手本を、52歳から61歳にかけて描いている。


その真骨頂はもちろん「北斎漫画」。55歳の頃に初編を発表し、5年間で10編を描いた。一度は筆を置いたが、好評だからとまた描き出して没後の1878年に15編が刊行されている。


その後60代から70代にかけて日本初の風景画「冨嶽三十六景」があり、「富嶽百景」へと続いていく。そして80代からの最晩年は、アトリエを長野県小布施に移しての肉筆画時代へ―――。


つねに一カ所に安住せず、絶えず新しい画境を切り拓く。常に向上を願って新天地に向かうのが北斎であり、その精神なのだ。


こうして歩みを振り返ると、74歳から出版し始めた「富嶽百景」の跋文に書かれた人生訓は心に響く。


「己6歳より物の形状を写すの癖ありて

半百(50歳)の頃より数々画図を現す、

73歳にして禽獣虫魚の骨格草木の出生を悟し得たり、

80歳にして益々進み、

90歳にして奥意を極め、

100歳にして神妙ならん、

110歳にしては一点一格にしす生きるが如くならん」


現在言われる「人生百年時代」を約170年先取りして、絵に生き絵に狂い絵とともに人間の真理と限界を見ようとした男、葛飾北斎。
 

だからこそヨーロッパのアーティストの心を鷲掴みにして、国境も時間も越えて生き続けているのだ。

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知られざる北斎

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神山典士

ノンフィクション作家。1960年埼玉県入間市生まれ。信州大学人文学部卒業。96年『ライオンの夢、コンデ・コマ=前田光世伝』にて第三回小学館ノンフィクション賞優秀賞受賞。2012年度『ピアノはともだち、奇跡のピアニスト辻井伸行の秘密』が青少年読書感想文全国コンクール課題図書選定。14年「佐村河内守事件」報道により、第45回大宅壮一ノンフィクション賞(雑誌部門)受賞。「異文化」「表現者」「アウトロー」をテーマに、様々なジャンルの主人公を追い続けている。

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