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知られざる北斎

2018.05.12 更新 ツイート

ヨーロッパの世紀末状況と印象派(1)

ロダンが熱狂した日本初の女優神山典士

鉄と科学と「都市生活」の時代

「エッフェル塔は1889年第四回パリ万博の最大のモニュメントとなった建築物である。(中略)エッフェル社社長のエッフェルは、自社の技師ヌギエとケクランが構想していた鉄(錬鉄)を用いた塔をこのモニュメントに相応しいと判断し、これをロクロワ商工大臣にフランス革命100周年記念として提案した。鉄は石と違って軽く、あらかじめ作っておいたユニットを組み立てるだけで済むため、物理的・経済的にも合理的であり、それ以上に何よりも、19世紀を象徴する「鉄」を用いた塔は、新時代のイメージにふさわしかった」(「近代技術の展示場、博覧会」webより)

「地下鉄の最初の区間がやっと開通する。本日開通する線は、ヴァンセンヌからポルト=マイヨまでパリを大きく横断する、パリ市の計画の最初の区間で、東から西へと向かう長さ10キロの部分である」(1900年7月4日、「パリ、イリュストラシオン」)

 この二つの記事、及び既に記した「エンジン博物館」に見るように、19世紀末は「鉄」と、その発展をもたらした「科学と産業」の発展の時代だった。

 エッフェル社は、エッフェル塔の建設以前にも1878年のパリ万博の展示館や、フランス最古の百貨店「ボン・マルシェ」、自由の女神の骨格、鉄道用高架、パナマ運河建設などを手がけていた。鋼鉄の橋を作っていた技術を垂直方向に応用して作られたのがエッフェル塔だ。

 その11年後の1900年万博では、世界中からエンジンや動力機関を集めた「機械館」が設置され、動く歩道もあった。18世紀半ばに起きた産業革命から一世紀、まさに機械と鉄の文明がこの時代の象徴だったのだ。

 1927年に生れ、国立西洋美術館主任研究官、群馬県立美術館館長等を務めた美術史家、中山公男はこの時代をこう書いている。

「蒸気機関車、鉄道、鉄橋、鉄骨の駅舎、電話、電信、それらはパリのサン・ラザール駅が建てられてから1889年のエッフェル塔の時代まで、急速度にフランスの生活を、とりわけパリの都市生活を変えていった。」(中央公論81年9月30日号)

 同時にこの時代のパリは、1848年二月革命によって大統領に当選したルイ・ナポレオン・ボナパルト(のちに51年12月クーデターにより議会を解散し、52年12月皇帝ナポレオン三世となる、第二帝政)の命により、セーヌ県知事に起用されたオースマン男爵が大胆かつ徹底的な都市改造を行った。55年から工事に入り、エトワール広場とシャンゼリゼ通りを中心とした放射線状の通りと、それらを繋ぐ環状線が整備された。70年にプロイセンとの戦いに破れてナポレオン三世は捕虜となり、第三共和制が敷かれるが、この工事は続行されてオペラ座やサクレ・クール寺院、オルセー美術館等が建設される。オースマンの計画には市内と郊外を結ぶ道路の整備、市内と地方を結ぶ鉄道網、広場、公園、劇場、教会、上下水道、ガス灯、乗合馬車など、都市生活のあらゆる要素が含まれていた。

 こうした都市の変容の中で、人々の生活のあり方、感覚も変わっていったと中山は書く。

「新しく造られたブーローニュの森の公園では、婦人たちの乗馬が流行し始め、(中略)町のあちこちにはカフェ・テラスができる。詩人のボードレールは、1864年に発表した散文詩の中で、そんなカフェ、夜もガス灯の光に輝くカフェ・テラスの姿を歌っている」(同)

 パリジャンたちの楽しみはパリの郊外まで伸び、セーヌ河下流での船遊び、ヨット、水浴、水辺の散歩等を楽しむことが一般的になった。

 それまでアトリエに籠もりきりだった画家たちも、一斉に野外へ飛び出して制作するようになったと中山は描いている。

 マネはテュルリーの音楽会、闘牛、ブーローニュの森の乗馬、アルジャントゥーユの舟遊び等々を描いた。ヴェルサイユからパリまで鉄道に乗ったときには、機関士や火夫たちを見て「まるで犬の生活だが、今日の英雄というべき人たちだ」と語っている。

 モネは公園での家族たちの集い、庭の食事、ボート、ヨット、海岸での行楽客、鉄道、鉄橋、サン・ラザール駅等々。ドガは競馬、オペラ座の舞台と稽古場、桟敷席、洗濯女、浴室の化粧姿、等々。ルノワールもボート遊び、レストラン、ムーラン・ド・ラ・ギャレット、乗馬、水浴、ルーアンの港、橋、船等々。

 それらはいずれも美術界ではかつてないテーマであり、制作スタイルだった。

 

5度のパリ万博開催とジャポニスム

 1851年の誕生以降、1900年までに55年、67年、78年、89年、00年と5回もパリで行われた万国博覧会が時代と人々の感性与えた影響も見逃せない。その時代の最先端技術や美術工芸品、芸術の粋を集めた展覧会は、いやが上にも人々の感覚を刺激し、気分を高揚させる。この半世紀で11回の万博が開かれたが、フランス以外で開催されたのは6回のみ(ロンドン2回、ウイーン、フィラデルフィア、シカゴ、ブリュッセル)。

 入場者数を見ても、他国だと150~200日間開催で500~700万人といったところだが、パリ開催になるといずれも1500万人以上、00年は5000万人を越えている。ヨーロッパ中から、あるいは遠くアメリカやアジアからも観客や美術工芸品、あるいは舞台芸術などもやってきた。

 そもそも万博は、フランス革命期に国内博覧会としてパリで開かれたものが国際的に発展したものだ。48年にフランス首相が国際博覧会を提唱し、51年にロンドンから始まった。

 すでに述べたように歴史的に「文化立国」を標榜するフランスは、万博だけでなく近代オリンピック、サッカー・ワールドカップ、自動車のF1レースなどの開催も提唱している。日常的な挨拶に「Bonjour tout le mond=世界のみなさんこんにちは」と言い合うお国柄は、このような歴史に裏打ちされている。

 パリでの5回の万博はいずれもシャンド・マルスの公園を会場として行われ、フランスでの「近代生活」の進展と変貌のシンボルとなった。技術文明の進歩、新しい発明発見の発表、各国の相互理解等の展示発表の舞台であり、日本にとっては1867年のパリ万博が文化的な意味での国際社会へのデビューだった。

 浮世絵のフランスへの本格的な登場は67年。そこから4度の万博において日本からは美術工芸品だけでなく、芸者、茶道、舞台女優等が登場し、生の人間や文化を通してヨーロッパの人々の中に「日本」のイメージが定着していく。それがジャポニスムのうねりに拍車をかけたことは間違いない。

 67年の万博には、幕府の他薩摩藩と佐賀藩も参加した。この両藩は、幕末期に積極的に西洋の新知識を摂取し、西洋の技術・機械を導入しようとしていたことで共通している。幕命により「長崎御番」として長崎警護を担っていた佐賀藩は、外国船に対する無力を痛感し、軍事費捻出のために名産の陶磁器の海外市場開拓を狙った。

 幕府は江戸の有力商人に出品物の収集を依頼したが、出品物を集めただけでなく自らパリまで出かけていったのが江戸商人・清水卯三郎だった。清水は幕府から命を受けた収集物を集めるために2万両の借金をして柳橋の芸者すみ、さと、かねのの三人をパリに連れて行き、茶屋において観客に茶を振る舞う接待をさせた。

 この時幕府は、官服、武器、書籍、図画、音楽器、漆器、陶器、金属器、紙類等を出品した。書籍は「江戸名所図鑑」「東海道名所図鑑」に混じって北斎の「北斎漫画」が含まれた。浮世絵は、人物画、風景画が選ばれた。

 清水たちは甲冑、馬具、矢、弓等の武器。文箱、印籠、硯箱等の漆器類。根付、筆筒等の彫器類を出品。そして出品目録には「茶屋一軒」の表記もあるので、茶屋を建てる資材もパリに発送したようだ。

 佐賀藩からは名産の有田焼関連の陶器506箱。薩摩藩からは漆器、陶器、茶器、竹細工等。琉球産品としては砂糖、織物、泡盛酒、藤細工等が出品された。

 

「芸者=Geisha」の衝撃

 これらの出品物の中で、最も注目を集めたものの一つは「日本女性」だった。フランス近代史を専攻する寺本敬子(跡見女子大学文学部助教授)は、「パリ万国博覧会とジャポニスムの誕生」の中でこう書いている。

「日本から連れられてきた3人の女性は、日本パヴィリオンで、多くのフランス人にとって初めて目にする日本女性ということで、大いに注目を集めた」

 初日には約400人だった観客が、翌日には1300人も集まったという記録があるから、会期中は大変な賑わいだったはずだ。

 この時の3人の芸者と、時代は下るが1900年の万博でロイ・フラー座に立った女優、川上貞奴(さだやっこ)が、ヨーロッパ人が生で見た日本女性の嚆矢であり、のちに世界に広く伝わる「芸者=Geisha」の原型になった。

「日本の近代女優第一号」と呼ばれる貞奴は、1871年(明治4年)日本橋の生れ。生家の没落で7歳の時に芸者置屋に養子に出され、貞奴を襲名。若いころから芸妓としてお座敷に上がった。23歳の時に自由民権運動家で書生芝居をしていた川上音次郎と結婚。

 一座を組んだ貞奴は、1899年にアメリカ巡演の旅に出た。途中興行主に資金を持ち逃げされるという災難にあいながらもサンフランシスコ、シアトルと公演を続け、「芸者と武士」という作品を川上が生み出して空前の人気となる。貞奴のエキゾチックな美貌と写実的な演技が人気の秘密だった。

 一座は1900年にロンドンで興行を打った後、パリの万国博覧会に招かれて、200席の客席を持つロイ・フラー座の舞台に立った。ピカソ、ロダン、ドビュッシーらがこの舞台に招待され、貞奴の舞台を見ている。ロダンは興奮の余り「彫刻を作りたい」と直訴したようだ。けれどロダンの名声を知らなかった貞奴は、時間がないと断ったという。8月には大統領官邸の園遊会に招かれ、歌舞伎の演目である「道成寺」を舞っている。

 一座はパリ万博後ブリュッセルでも公演を行い、1901年1月に帰国。あまりの名声にその後すぐに4月から7月まで再度渡欧し、イギリス、ドイツ、オーストリア、ハンガリー、イタリア等を巡業した。(「舞台上のジャポニスム」馬渕明子)

 この時代、ヨーロッパに現れた「芸者」の姿は、ロダンやピカソたちアーティストだけでなく一般のヨーロッパ人にも強烈な印象を残した。

 1867年パリ万博の審査員の一人、プロスペリ・メルメは手紙の中でこう書いている。

「日本の女性たちを見て大変気に入りました。彼女たちはカフェ・オレのような皮膚の色で、それがはなはだ快適な色合いでした。その衣装の裂け目から判断したかぎりでは、彼女たちは椅子の棒のように細い足をしているらしく、これは痛々しいものでした。」

 のち『北斎』という評伝を書く、日本美術愛好家でもある小説家エドモンド・ゴンクールも「ある芸術家の家」でこう記している。

「1867年の博覧会を記憶する人々は、この博覧会で茶を売っていた日本女性がござの上をいつも四つ足で這っているきれいな小動物のように見えたことを覚えておられるであろう。日本の女性がこういう体つきをしているのは何か訳があるのだろうか」

 いずれも華奢で可憐な日本女性の体つきと、着物のイメージを鮮明に記している。ジャポニサン(日本文化愛好家)たちはすでに浮世絵や春画は所有していた頃だから、芸者たちや貞奴は動く「美人画」として愛でられた。浮世絵で持っていた日本、及び日本女性のイメージが、万博で本物と出会って定着する。現在のブロマイド(否、インスタグラムやフェイスブックか?)とアイドルのような関係が成立したのだ。その結果ジャポニスムは、ますます大きな炎となっていく。

 

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知られざる北斎

「冨嶽三十六景」「神奈川沖浪裏」などで知られる天才・葛飾北斎。ゴッホ、モネ、ドビュッシーなど世界の芸術家たちに多大な影響を与え、今もつづくジャポニスム・ブームを巻き起こした北斎とは、いったい何者だったのか? 『ペテン師と天才 佐村河内事件の全貌』で第45回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した稀代のノンフィクション作家・神山典士さんが北斎のすべてを解き明かす『知られざる北斎(仮)』(2018年夏、小社刊予定)より、執筆中の原稿を公開します。

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神山典士

ノンフィクション作家。1960年埼玉県入間市生まれ。信州大学人文学部卒業。96年『ライオンの夢、コンデ・コマ=前田光世伝』にて第三回小学館ノンフィクション賞優秀賞受賞。2012年度『ピアノはともだち、奇跡のピアニスト辻井伸行の秘密』が青少年読書感想文全国コンクール課題図書選定。14年「佐村河内守事件」報道により、第45回大宅壮一ノンフィクション賞(雑誌部門)受賞。「異文化」「表現者」「アウトロー」をテーマに、様々なジャンルの主人公を追い続けている。

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