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知られざる北斎

2018.05.19 公開 ツイート

印象派が求めたもの

新しい感性はいつの時代も叩かれる 神山典士

モネ「睡蓮」(metmuseum.org)

罵声と共に印象派の登場

 パリ万博で日本女性が絶賛されていたころ、1870年代あたりから浮世絵の強烈なファンとなる印象派の画家たちは、どんな歩みを見せていたのだろうか。

 まだ印象派と呼ばれる以前、彼らの登場は「落選」と「非難」と「罵倒」から始まった。

 その最初の主人公となったのは、1863年のサロン(「官展」)に、森の中で正装した二人の男性と裸の二人の女性が仲むつまじく談笑する風景を描いた「草上の昼食」を出展したエデュワール・マネだった。

 印象派のグループの中ではピサロに次いで年長だったマネは、この時31歳。それ以前は限られた人にしか知られない新人画家だった。前回のサロンでは優秀賞を貰ったマネが、この年のサロンでは落選してしまう。

 ところがこの時のサロンは、約5000点の応募作品のうち、約3000点が落選するという厳しいものだった。落選した鬱憤が画家たちの中に募り、不平不満が渦巻いた。それが時のナポレオン三世の耳に入ったことで、「では公平を期すために落選展を開け」という命令が出る。

 再び「落選展」(「敗者のサロン」とも言われた)において衆目に晒されることになった「草上の昼食」は、残念ながらここでも非難と罵倒の対象だった。

 一つは正装した男性のわきに裸の女性が佇むのはけしからんという風俗上の批判。

 もう一つの非難は、その2年後にサロンに出品されたベッドの上に花飾りをつけた裸婦が横たわる「オランピア」と共に、「充分な肉付けが施されておらず、平面的であって立体感を欠いている」(『近代絵画史(上)』高階秀爾)という技術的なもの。ルネサンス以降の伝統である陰影による肉体の肉付けが行われていないことが、美術界の長老たちの逆鱗に触れたのだ。

 この頃フランスでは「サロン(官展)」だけでなく美術教育の機構全体を「アカデミー・デ・ボザール」が支配していた。そこにはルイ14世の時代から根付いた厳しい美術基準があり、そこから外れるとサロンでの入選はおぼつかない。たとえ入選したとしても、数千点に及ぶ入選作の中で、ひと目につかない場所に飾られて埋没するのがオチだ。まだ画商という職業も成熟していなかったから、落選したら美術市場からも弾かれる。

 その閉塞状況にあって、63年の「落選展」の後、若くて当時にあっては前衛的な思考を持った画家たちがマネの周囲に集まるようになった。そのアトリエがあったパリ市内のパティニョール大通りのカフェ「ゲルボワ」がたまり場だった。

 だがどんなに仲間と熱く語らっても、サロンに入選できない若き画家たちは、貧乏のどん底だった。

 この頃モネは、画家を志すことで両親から見放され、生活は困窮する一方だった。毎年のようにサロンに出展するが、65年66年を除けばいずれも落選。「ゲルボワ」の集まりにも何度か顔を見せている。近所に住んでいたルノワールの援助を受け、一緒に製作活動をすることもあった。大切な作品を借金のかたに差し押さえられたことがあり、ある時はそれをきらって200点もの作品を破棄したこともある。

 その間70年にはフランスとプロイセンとの間で戦争が勃発。モネは単身ロンドンに逃れ、同じように逃げてきたピサロと連れ立って美術館を訪ねたりしている。ルノワールは騎兵隊に入り、ドガは砲歩隊に、マネは国防軍参謀本部に入隊した。バジールのように戦死した仲間もいる。

 ようやく画家たちがフランスに戻り、「ゲルボワ」の集まりを復活させ、パティニョール通りの仲間たちがグループ展を開くことになったのは、戦争の傷も癒えた74年4月15日のこと。「ゲルボワ」仲間の写真家ナダールのアトリエを会場として、正式名称は案が出て揉めた末に「画家・彫刻家・版画家等匿名協会」展と決まった。モネ、ピサロ、ルノワール、ドガ、セザンヌ、シスレー等35人の画家が集まり、165点が展示された。

 

屈辱の命名

 展覧会開館後10日目の4月25日。「シャリヴァリ」紙上に批評家ルイ・ルロワの長文の批評が掲載された。

 題して「印象派の展覧会」。ルロワとアカデミー派の画家の対話形式で書かれている。


「(モネの『キャピュシーヌ大通り』の前で)こいつはなかなかよくできているじゃないか。これがその『印象』とかいうやつだな。わしがみるところ、そうに違いない。だがあの画面の下のほうにたくさん見えている黒いぽちぽちはいったい何を現しているのかね?」
「ありゃ町を歩いている人々ですよ」
「なんだって? するとわしがキャピュシーヌ大通りを歩いていると、あんなふうに見えるとでもいうのかね? なんと言う馬鹿なことを! わしをからかっているんだろう」
「とんでもない、ムッシュー」
「こりゃまったく前代未聞だ。恐ろしいことだ。わしはきっと卒中になってしまうだろう」


 この記事から、作品群に対する轟々の非難と共に「印象派」という名前が定着したという。もう一つ、別の説もある。


「ああ、この男だ、この男だ」
 出品番号98番の前で彼は叫んだ。
「私はこの男を知っている。この絵は何を描いているのだろう。カタログを見たまえ」
「印象・日の出です」
「印象か。そうだと思っていた。この中には印象が含まれているだろう。筆遣いの何と自由で無造作なこと。描きかけの壁紙でも、この海景画に比べればもっと描き込んであるだろう」


 1872年、極貧のうちにル・アーブルの部屋の窓から「霧の中の太陽とそそり立つ何本かのマストを前傾に描いた」あまりにも有名な一枚の絵。後にモネはこの絵の題名について「最初はただの「日の出」だったが、展覧会のカタログの編集者エドモン・ルノワール(ルノワールの弟)から「もう少し魅力的な名前をつけてくれ」と要求されてつけたものだ」と語った。

『近代絵画史(上)」の中で、高階秀爾は書いている。

 ―ーモネがエドモン・ルノワール(の要求)に対して「それなら『印象』と付け加えたまえ」と言ったのは、とっさのあいだの返答ではあったに相違ないが、それだけに、平素からモネが考えていた美学の根本を端的に示したともいえる。(中略)自然の客観的な姿というよりも、モネの感覚が捉えた自然の「印象」という、きわめて主観的な世界にほかならなかった―ー

 

印象派の求めたもの

 この時代、フランス美術界の「革命児」と言われた印象派の若き画家たちが求めたものは、「光とその震え、色調と輝き」だった。

 科学の時代であった19世紀末、光学も発達した。色彩と光については、科学者シュヴルールらにより理論的に解明された。絵具は混ぜれば混ぜるほど暗い色調になる。明るい自然を再現するためには、なるべく混ぜないようにしなければならない。

 画家たちは三原色、第一次混合色、補色等の理論を駆使して、画家たちはパレットの上で混合するのではなく、絵の具を混ぜないで、混合すべき色を小さなタッチ(筆触)でカンヴァスの上に併置して、絵を見る人の網膜の上で色を混ぜる方法を編み出す。

「自然」という新しいテーマも、印象派の画家たちの「ニューフロンティア」だった。

 それ以前の「サロン」では、伝統的に絵画のテーマやモチーフにはヒエラルキーが存在していた。神々や神話の英雄たちを描いた絵が「高貴」であり、人間を描いた肖像画はその次。風景画や動植物を描いた絵はヒエラルキーの最下位となる。まして風景画は、神がつくりし大自然を俯瞰する視点で描くことが前提で、花や蝶、動物や昆虫をテーマにすることはありえない。遠近法の中心は「神」であり、神が画面の中央に位置することは自明のこと。

 その時代にあって印象派の画家たちは、新しい感受性で捉えた「自然」にテーマを求めた。自然を自己の感覚で描こうとする画家は、カンヴァスを現場(野外)に持ち出して、その瞬間の「印象」を写し取ることに集中する。

 ちょうどこの時代、「金属石鹸」という新しい助材が生まれ、それを絵具に混ぜることによって、それまでののっぺりとした色調ではなく筆捌きの跡が作品に残せるようになった。豚の腸に入れたチューブ状の絵具も発売され、屋外での写生もやりやすくなった。

 高階は、同書でこんなエピソードを披露している。
 

「モネが『庭の女たち』を制作していたころ、たまたまクールベが彼のアトリエに立ち寄ったことがあった。 モネは庭に大きなカンヴァスを出して、絵筆を手にしたまま何もしないで立っているだけだった。『なぜ描かないのか?』とクールベが尋ねると、モネは太陽を覆っている雲を指さして、『あのせいだ』と答えた。 クールベにとっては、太陽の光りは、せいぜいすでに存在している世界に『影』をつけるものであったが、モネにとっては、それが世界の全てだった」


 光、色彩、自然、構図、そしてそれら全てを包含する新しいテーマ―――。

 19世紀末、その自由を求めて、モネ、マネ、ドガ、ルノワール、セザンヌたちは自らの貧困を懸けて日々闘っていた。

 その時、やって来たのだ。ファーイーストの島国から。印象派の画家たちが求めてやまない色彩、明度、構図、テーマ性を持った新しい「芸術」が。

 輪郭のくっきりとした対象物。影のない技法。人物や風景だけでなく、鳥、蝉、蛇、そして波といった西洋の画家には思いもつかない自然界を対象にした多彩なテーマ。一つのテーマを様々な角度から何作も描く制作スタイル。そして技術の確かさ。それらは支配階級に隷属する作品ではなく、一般市民の生活の細部を描いた市民芸術だという点にヨーロッパの画家たちは驚いた。

 それは、「浮世絵」という名の「黒船」の来襲――そんな感覚に近かったはずだ。

 そしてその中でも、誰よりも多彩なテーマ性と完璧な技術、視力と視点を持った一人の画家に注目は集まる。


 ――あられもない人間の肢体をこんなバリエーションで描いていいのか?
 ――こんなシンプルな線だけで人間が描けるのか?
 ――花や蝶、蜻蛉や蝉はテーマになるのか?
 ――ただの波頭をこんなに大胆な構図で描いていいのか?


 印象派の画家たちのため息まじりの呟きの中で、一人の絵師が、ヨーロッパの美術シーンに颯爽と登場した。

 それが―――、葛飾北斎だった。

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知られざる北斎

「冨嶽三十六景」「神奈川沖浪裏」などで知られる天才・葛飾北斎。ゴッホ、モネ、ドビュッシーなど世界の芸術家たちに多大な影響を与え、今もつづくジャポニスム・ブームを巻き起こした北斎とは、いったい何者だったのか? 『ペテン師と天才 佐村河内事件の全貌』で第45回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した稀代のノンフィクション作家・神山典士さんが北斎のすべてを解き明かす『知られざる北斎(仮)』(2018年夏、小社刊予定)より、執筆中の原稿を公開します。

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神山典士

ノンフィクション作家。1960年埼玉県入間市生まれ。信州大学人文学部卒業。96年『ライオンの夢、コンデ・コマ=前田光世伝』にて第三回小学館ノンフィクション賞優秀賞受賞。2012年度『ピアノはともだち、奇跡のピアニスト辻井伸行の秘密』が青少年読書感想文全国コンクール課題図書選定。14年「佐村河内守事件」報道により、第45回大宅壮一ノンフィクション賞(雑誌部門)受賞。「異文化」「表現者」「アウトロー」をテーマに、様々なジャンルの主人公を追い続けている。

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