葛飾北斎はいかにして「世界の北斎」になったのか? 北斎を西洋美術界へ売り出した天才画商・林忠正とは? 7月26日発売『知られざる北斎』(小社刊、本体価格1,400円+税)の中身を一足早くお届けします。
印象派の聖地へ
パリ・セーヌ河左岸にあるオルセー美術館に来ている。
1986年のその開館時には、もっぱら第一次大戦前までの19世紀美術が展示のメインだったというが、現在では旧印象派美術館(ジュ・ド・ボーム)の収蔵品を全て引き継ぎ、事実上の「印象派美術館」として世界からやってくる観光客の人気を集めている。
7月のパリ。地下鉄の駅から外に出るとムッとした熱気がまとわりつく。それを振り払いながら、かつては長距離列車のターミナル駅だったというドーム状の天井を持つこの館に向かう道すがら、私の脳裏に駆けめぐっていたのはモネでもセザンヌでもゴッホでもなく、一人の日本人の存在だった。
――オルセー美術館にいくと、葛飾北斎とモネやゴッホを結びつけた日本人画商の像があるらしいよ。
私にそう教えてくれたのは、オランダ・ロッテルダム近郊の町で再会した旧友ピーター・イークマンだった。彼は美術界の人間ではない。IT企業の経理マンだ。ヨーロッパ取材の途中で一泊して旧交を温めていた時、私が北斎をテーマにしていると知ってネット検索を重ね、その情報を得たと教えてくれたのだ。
私はこの旅で、すでにロンドン大英博物館で開かれていた「北斎展~beyond the Great Wave」を取材し、キュレーターのティム・クラーク氏にインタビュー。続いてオランダ・ライデンに飛び、国立民俗学博物館とシーボルト・ハウスのキュレーターのダン・コック氏に北斎についての話を聞いたところだった。
期せずして二人の口からは、「19世紀末ジャポニズムにおいて重要な人物は画商の林忠正だった」、「印象派と浮世絵を結びつけた人物だ」という発言を聞いていた。だが私にはその時点で林忠正に対する知識はゼロ。まさかヨーロッパ取材の中で、ジャポニスムに関して日本人の存在が浮かび上がってくることなど、予想もしていなかった。とはいえ日本美術研究ではヨーロッパを代表する2人のキュレーターから林忠正の名が語られたところをみると、少なくとも美術界ではその存在は重要視されているに違いない。
いったい林忠正とはどんな人物なのか? なぜ北斎とゴッホら印象派の画家たちを結びつけたと言われるのか? どんな活動を展開した人なのか?
帰国したら基本的な資料調べから始めないといけないなと思っていた。
そこてピーターから「オルセー美術館に日本人の像があるらしい」という情報が入り、それは林忠正に違いないと直感的に思ったのだ。
私は胸踊らせながら19世紀末に起こった「ジャポニスム」のメッカだったパリに着くと、さっそくオルセー美術館を訪ねることにした。
なぜ北斎は世界の北斎になったのか?
――世界では「モナリザ」と並ぶ認知度を誇る北斎の「神奈川沖浪裏」。あるいはその進化系と言われ、大英博物館でも大人気だった長野県小布施の祭り屋台の天井絵(肉筆画)「男浪」と「女浪」。なぜ北斎はこれほどまでに世界的な人気を得ているのか?
今回の北斎を巡る旅は、大きく言えばそれを主要テーマとしている。
これまで述べたように、19世紀半ばにパリにもたらされた浮世絵は、印象派の画家たちに寵愛されてその技法やテーマは彼らの手本となった。そこから沸き起こった一般美術ファンも巻き込んだ「ジャポニスム」と呼ばれる日本美術ブームこそ、今日の北斎人気の源流の一つだった。
その始まりはこんなエピソードで語られる。
「1856年、フランスのデザイナーであり版画家でもあったフェリックス・ブラックモンは、摺師で版画版元のオーギュスト・ドラートルの家で、日本から送られてきた品物の包装紙や緩衝材として使用されていた『北斎漫画』を発見し、これをエドゥアール・マネ、エドガー・ドガ、ジェームズ・マクニール・ホイッスラーら彼の周辺にいた人々に喧伝することで、日本熱が起こった」(『シノワズリーか、ジャポニズムか』東田雅博著)
その後1862年のロンドン万博、67年のパリ万博で日本美術は「嵐を引き起し」(同書)、ドイツやベルギーも含めてヨーロッパ全体に広まっていったとされる。
だが陶器の包み紙として発見されたとしても、浮世絵がヨーロッパ全土に広がるには一定の供給量が必要だ。いつまでもしわくちゃになった包み紙で満足するコレクターはいない。まして浮世絵は刷り物だから、初擦りと版を重ねたものとでは品質が異なる。ある程度人気が出れば、コレクターを満足させる高品質の作品を仕入れなければ熱狂は起こらない。西洋人はそれらをどうやって極東の島国から輸入したのか?
そう考えれば明治開国期前後のパリには、ヨーロッパの美術界を満足させる日本美術品の質と量を確保するために、一定程度確立された輸入システムがあり、それをビジネスとして扱う人物がいたに違いない。
さらにいえば、画家たちが浮世絵を購入するための財力にも疑問が残る。マネ、モネ、シスラーら当時の新進気鋭の画家が初めてグループ展を開き、後に「印象派」と呼ばれる集団を形成したのは1874年のこと。当初はその豊かな光と色彩は美術界の顰蹙を買ったというし、最初から絵が高値をつけたわけではない。画家たちが、次第に高騰する浮世絵を買う財力を身につけるには、印象派がアメリカで人気が出る1890年代の到来を待たなければならなかったはずだ。ことにゴッホは、生涯で絵が売れたのはたった1枚とされる。ところがゴッホは、浮世絵を500点も所有していたという。「タンギー爺さん」という作品の背景には浮世絵を描きこんでいるし、英泉や広重を模写した作品も残している。大英博物館の「北斎展」では、弟のテオとの間でのこんな会話が紹介されていた。
「波の爪先が娘を捕まえているようだと誰もが感じるだろうね」
これは「神奈川沖浪裏」を見て語られたものだ。またこうもいう。
「私の全ての作品は、日本の美術の広がりをベースにしている」、と。
つまりゴッホのようにまだ世に認められる前の画家たちにも、なんらかの方法で北斎らの浮世絵を与えたか、廉価で売却した人物がいたことになる。そうでもなければ、少なくとも富を得る前の印象派の画家たち、及び同時代のエミール・ガレやカミーユ・クローデルといったガラス工芸師や彫刻家までが、一斉に北斎ら浮世絵師の作風を真似て作品を描き創るなどということはありえない。
ジャポニスムには、そんな中心的な人物がいたのか? いたとすればそれはフランス人なのか、日本人なのか?
その謎がオルセー美術館に行けば氷解するかもしれない。私は大勢の観光客をかき分けて、足早に館の入り口へ向かう階段を駆け上った。
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知られざる北斎
「冨嶽三十六景」「神奈川沖浪裏」などで知られる天才・葛飾北斎。ゴッホ、モネ、ドビュッシーなど世界の芸術家たちに多大な影響を与え、今もつづくジャポニスム・ブームを巻き起こした北斎とは、いったい何者だったのか? 『ペテン師と天才 佐村河内事件の全貌』で第45回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した稀代のノンフィクション作家・神山典士さんが北斎のすべてを解き明かす『知られざる北斎(仮)』(2018年夏、小社刊予定)より、執筆中の原稿を公開します。
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