日本人のマスクとの対面
「この美術館内に日本人の像は展示されていますか?」
この日通訳を頼んだソルボンヌ大学に学ぶ日系フランス人、アユリ・ギーユが受付の女性に尋ねた。
ところがこちらの秘めた興奮をあざ笑うかのように、彼女の答えはそっけなく、
「ノン」
そんなはずはないと、めげずにアユリを介して説明を重ねる。
「ジャポニスムの時代の日本人で浮世絵と印象派を結んだ人物で――この館に何か陳列物があるはずなんです」
受付に座る二人はコソコソ話しを始めた。
やがて――、「アーボン」と呟いて一人が笑顔を見せた。
「その人は57号室にいるわ」
急いでエレベータに乗ってその部屋にかけつけると――。
あった。
像ではなく、茶色い古色ブロンズの日本人のマスクが、確かにガラスケースの中に佇んでいる。左にはフランスの文豪オノレ・ド・バルザック、右には「昆虫記」で知られる博物学者アンリ・ファーブル、奥には近代彫刻の父オーギュスト・ロダンといった世界的な巨人たちのマスクに混じって。
立派な髭を蓄えた男の名は「Hayashi Tadamasa」。沈黙の中にも威厳が感じられる佇まいだ。
「しかもこのマスクには由来があるようですよ」
しばしショーケースを見つめていたアユリがいう。
「Acquis grace a la Societe des Amis du muse d’Orsay,1990とあります。この美術館の友好協会がアルベルト・ベルトロメという作家から購入してこの美術館に寄贈しています。つまりそれだけ印象派に貢献した人物という証ではないでしょうか?」
林忠正。
明治開国期にパリで活躍した画商だという。だがその存在もその働きも、今回ヨーロッパに来るまで私は知らなかった。パリは他の取材で何度も訪れているのに、この名は初耳だ。驚きの余り即座に何人かにメールを打ったが、パリ在住3年になる官僚夫妻も、ディオールの広報に務める友人も、フランス文学を学ぶ留学生も、林忠正という名前には記憶がないという。
いったい何者なのか? どんな働きをして美術界にどんな貢献をした人なのか? さらにフランスとフランス人にはこれだけ評価されているにもかわらず、日本においてその存在が一般には全く知られていないのはなぜなのか?
北斎の存在を世界に知らしめたといってもいい(と思われる)人物の登場とその大きな謎の前に、私はしばし、その場から動けなくなった。
知られざる北斎

長澤まさみさんが主演する映画『おーい、応為』が話題です。
モネ、ゴッホを魅了し、西洋で「東洋のダ・ヴィンチ」と称された葛飾北斎。
その名を世界に広めた画商・林忠正、そして晩年を支えた小布施の豪商・髙井鴻山。芸術と資本、江戸と西洋が交錯する中で創作に生きた画家の生涯を描いた書籍『知られざる北斎』もあわせてお楽しみください。本書から一部を抜粋してお届けします。
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