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知られざる北斎

2018.06.30 公開 ツイート

北斎をプロデュースした男・林忠正(2)

「国賊」と蔑まれ…天才画商の寂しい晩年 神山典士

忠正の記憶

 たとえばオルセー美術館と木々の家にあったブロンズの忠正のマスクについて、オルセー美術館の公式ホームページにはこう記されている。

 

 「林忠正のマスク:林忠正(1853-1906)は、フランスの日本文化初の大使の一人です。彼は1878年にパリに到着し、商人KenzaburôWakaïの通訳として働きました。1883年、彼は多くのアマチュアを魅了する "ジャポニーズ"の店をオープンしました。彼は芸術界や文学界での活動を始めます。マスクの作者であるAlbert Bartholomé(アルベール・バルトロメ)が林と出会うのはおそらくDegas(ドガ)のサークルです。彼のエキゾチックな顔に魅了された彫刻家は、1892年から彼の肖像画作りに取り組みました。バルトロメは日本彫刻の代表の1つと考えられる能のマスク(能面)からインスピレーションを得ます。
このブロンズの作品は1894年に国立美術学会のサロンで発表されています。赤い緑青が顕著です。ドガ自身がこのマスクの石膏コピーを持っていました」

 

 調査の結果わかってきたのは、パリを舞台にした林忠正の驚くべき働きと美術界への貢献、そしてもう一つ、1905年(明治38年)の帰国後の寂しい晩年だった。

 

 西郷隆盛が自刃し西南の役が終わった翌年の1878年(明治11年)、大学南校(この年に開成学校を経て東京大学と改称される)でフランス語を学んでいた24歳の忠正は、パリで開かれる万国博覧会に参加する日本初の貿易会社「起立工商会社」の通訳兼売り子として採用され、1月29日に横浜港を出航。パリに渡る。

 

 この万博の期間中、すでにジャポニスムの熱狂の中にいた印象派の画家たちや美術評論家たちは、「日本の知識」を求めて連日博覧会の日本部門の展示場を訪れた。木々氏は、のち1996年に高岡市立美術館で行われた「林忠正の眼展」の公式カタログに、こう書いている。

 

「彼らのたくさんの疑問や質問に、熱心に答える“教養ある青年、林”は強く印象づけられ、忠正と彼らとの交友はこの時から始まったのである」

 

 約半年間続いた万博終了後も忠正は帰国せずにパリに住み着き、以降1905年(明治38年)の帰国まで、27年間にわたってかの地で画商として活躍した。

 

 1900年(明治33年)に開催されたパリ万博では、それまで官僚の役割だった日本館の事務官長に民間人ながら抜擢され、その働きを評価されてフランス政府から「レジオン・ド・ヌール勲章3級」を受けている。

 

 彼こそがジャポニスムの仕掛け人の一人だ! 彼がいなければ印象派の画家たちや工芸家、彫刻家らが一斉に北斎や浮世絵の作風を真似るなどということはありえなかったのだ。

 

 その帰国に際しては、大量に持ち帰った西洋絵画を中心に、在フランス時代に購入していた東京木挽町の約1300坪の自宅敷地内に西洋美術館をつくりたいと夢想していたという。その敷地は現在新橋演舞場になっている。もし実現していれば、どんなに立派な美術館になったことか。

 

 だが不意の病が襲い、没したのは帰国翌年の06年(明治39年)4月10日。53歳という若さで。あまりに早く没してしまったために、「ある誤解」を解くことなく今日に至っている。

 

 目の前で忠正の生涯を語ってくれた木々氏は、80代後半とは思えない矍鑠とした婦人だった。亡くなった夫・忠康が忠正の嫡孫に当たる。1976年に記した『蒼龍の系譜』では、女性の芥川賞と言われる「田村俊子賞」を受賞している。およそ一世紀に渡る史実を語る木々氏の記憶は確かで、いまも忠正の正確な行動記録を、資料を突き合わせながら書き綴っているという。彼女の脳裏に存在する忠正は、ベル・エポックの時代のままに颯爽と輝いているのだ。だがこの家には、その栄光の記録はほとんど残っていないと、自重気味にこう語る。

 

「祖父の忠正は明治38年の帰国時にはモネ、マネ、ゴーギャンらを含む美術品を600点以上持ち帰りました。西洋美術館をつくりたたったのですから。でも私たちの父の代で相当数を処分してしまい、もう我が家にはフランスから来た作品の中でたいしたものは残っていないんです」

 

 木々氏はそう言いながら壁の作品のいくつかを解説してくれた。

 

「まんなかに地味な絵がかかっていると思いますが、あれはテオドル・ルソーの『森』というペン画です。義母はこの作品は特に大切にするようにと言っていました」

 

 後日調べてみると、テオドル・ルソーは印象派の前の「バルビゾン派」の代表的な画家だ。コローやミレーらと共にパリの南方60キロのバルビゾン村に滞在し、フランスの絵画史上初めて本格的な風景画を描いた画家と言われる。木々氏はこう続けた。

 

「忠正はまだ売れる前の印象派の画家たちには、物々交換で浮世絵をあげていたようです。ジヴェルニーのモネのところにも何度も行っていたようですし。そうでもしなければ、貧乏だった画家たちは浮世絵をそれ程所持できなかったはずです」

 

 一枚の絵にも、まだ世に認められる前の印象派やバルビゾン派の画家たちに北斎らの浮世絵を物々交換して与え、支援していた画商・忠正のコレクションの精神が宿っている。その没後、未亡人となった妻・里子は二人の息子と一人の娘を育てあげた。だが収入もないのに忠正生前の生活レベルを維持しようとすれば、当然経済は穴の空いたバケツ状態だ。さらに不運も重なった。大正13年の関東大震災で洋館が焼け、昭和初期には息子二人が事業に失敗。1930年(昭和5年)には長男忠雄が早逝。広大な土地は売却され、貴重なコレクションは大正から昭和初期にかけて、今から考えれば安すぎる価格でアメリカを中心に売られてしまった。この家に残ったのは、微かな残滓ということになる。木々氏は、さらに残念そうな表情でこうも付け加えた。

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知られざる北斎

「冨嶽三十六景」「神奈川沖浪裏」などで知られる天才・葛飾北斎。ゴッホ、モネ、ドビュッシーなど世界の芸術家たちに多大な影響を与え、今もつづくジャポニスム・ブームを巻き起こした北斎とは、いったい何者だったのか? 『ペテン師と天才 佐村河内事件の全貌』で第45回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した稀代のノンフィクション作家・神山典士さんが北斎のすべてを解き明かす『知られざる北斎(仮)』(2018年夏、小社刊予定)より、執筆中の原稿を公開します。

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神山典士

ノンフィクション作家。1960年埼玉県入間市生まれ。信州大学人文学部卒業。96年『ライオンの夢、コンデ・コマ=前田光世伝』にて第三回小学館ノンフィクション賞優秀賞受賞。2012年度『ピアノはともだち、奇跡のピアニスト辻井伸行の秘密』が青少年読書感想文全国コンクール課題図書選定。14年「佐村河内守事件」報道により、第45回大宅壮一ノンフィクション賞(雑誌部門)受賞。「異文化」「表現者」「アウトロー」をテーマに、様々なジャンルの主人公を追い続けている。

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