『ビジネスパーソンのための「芸風」で書く技術』刊行記念、レジーさんと大島育宙さんの特別対談・中編です。
前編では、AI時代に人間に残る価値として「芸風」を 捉え直したお二人。では、その芸風は、世界の見え方や生き方に何をもたらすのか。 議論は文章術を越えて、自分なりの「世界の楽しみ方」へと広がっていきます。
<構成・文:田邉愛理 撮影:植 一浩>
* * *
「半径1メートルの世界」をどう面白がれるか

大島 前編では、芸風って便利さに対する「摩擦」で、情報の速度を落とすものなんじゃないか、という話をしました。
僕は便利さや速度を追求してガンガンやっていくより、自分の中の「面白い」を研究して滞留させる時間を持っていたほうが、トータルでは絶対に得だし面白いと思っています。でもそう言うと、結局「損得の話か」と矮小化されてしまうので、どう伝えたらいいのか日々迷う場面が多くて。
ただ長期的に見れば、人間はある時期から体が衰えていくじゃないですか。体が動かなくなって、病室の窓から外を見たときに、その限られた世界でも何かを切り取れる、面白がれる。それこそが自分にとっての「芸風」なんじゃないかと思うんです。
そして、芸風の成熟は老いとともにある。老いた結果なにも残らないのではなく、楽しい世界が自分の半径1メートルに残り続ける。ビジネスとは関係なしに「そのほうが人生は面白いよね」と伝えたいんですが……。
レジー そうですね。いまの大島さんのお話を聞くと、それは「得」と言ってもいいような気がします。
最近Xで、「中年になると何を見ても既視感があって、海外旅行に行っても楽しめなかった」といったポストが共感とセットでバズっていたんですが、僕は逆だと思っていました。知っていることや経験したことが増えた結果、見たものから得られる情報量が増える感覚の方が強いので。昔より今のほうが旅行を楽しめている実感があります。
大島さんの「病室の窓」の話もまさにそうで、同じものを見たときに、どれだけ情報を汲み取って面白さや新しい発見を見出せるか。見る角度のつけ方や、そこからどれだけ読み取れるかというのは、すごく「芸風」に近い話だと思うんです。
それを死ぬまで楽しめるのだとしたら、やっぱり「得」と言って差し支えないくらい、素敵なことなんじゃないでしょうか。
ゲームは自分でルールを作るほうが楽しい

大島 僕は本当に、ラジオが1台あれば一日中かなり楽しいんですよ。思ったことをちょこちょこ日記に書いたり、あとはあわよくば常時接続のネットワークから離れて図書館にこもったり。今いちばん欲しいものは何かと聞かれたら、そういう時間かもしれません。
レジー 一番ぜいたくな時間ですね。
大島 そうなんですよね(笑)。一方で、AIっぽいコンテンツを見ることや、人間が何かにやらされている様子を見るのは、かなり苦痛なんです。たとえばショート動画は、縦画面に最適化されたフォーマットに合わせて、人間の身体表現まで規定されていくじゃないですか。メディアに自分の動きを制限されている感じがして、僕はすごくしんどくなってしまう。
きっと用意されたゲームをプレイするより、自分でルールを作るほうが楽しいんです。YouTubeで「菅田将暉の出演映画を全部見る」とか、誰に頼まれたわけでもないのに勝手にやる。 野球だって、打った瞬間に一塁だけじゃなく、三塁にも走っていいルールにしたほうが絶対に面白いと思うんですよ。なんで全員、一塁に向かって走るんだろうって。
レジー それは考えたことがなかったです(笑)。
大島 僕は昔からそういうことが全部引っかかるんですよね。決められたルールの中に没入できないという点では、生きづらさや疎外感もあります。
ただ、これは僕の特性です。「ちゃんと」した世界や秩序のある場所にきれいにはまっているほうが、楽なだけじゃなく楽しい人もいると思う。なので一度、「自分はどっちなんだろう」と半歩引いて自覚してみるのは、みんなやったほうがいいと思います。
「ちゃんと」から外れた先にあった仕事

レジー それで言うと大島さんは、意図的に「ちゃんとしていない」側へ踏み出してきたというか、東大を出たあとのキャリアも周囲とはかなり違いますよね。同調圧力や身近な人の反応は気になりませんでしたか。
大島 もちろん言われましたし、説得はけっこう難しかったです。ただ、中学生の頃に、いとうせいこうさんとか太田光さんとか、「自分はこういう人生を歩むんだろうな」と思った人をWikipediaで調べると、みんな肩書が十個以上書いてあったんですよ。
それを見て、何十個も仕事をするって当たり前なんだと思って生きてきたので、逆に、まわりが二十代になって進路を絞っていくことが根本的に理解できなかった。
レジー 何かの専門職になるとか、会社勤めをするとか。
大島 そうです。正社員という働き方も、「会社に何かを保障してもらう代わりに、納得のいかないこともやる」という契約自体、向いている人と向いていない人がいるはずですよね。
僕は中一ぐらいから、自分はフリーランスで行くんだろうなと思っていたし、芸人はいいけど、ゴリゴリのど真ん中の芸人にはならないだろうし、執筆もするんだろうし、コメンテーターもするだろうなと。
だから、幅広くやりたい人は、コンサルにならないでみんな芸人になったほうがいいと思うんですよ(笑)。
レジー なるほど(笑)。
大島 ただ最近は、言葉を使ったり表に立ったりする人の中で、ジェネラルであろうとする人が減っている気がして。「あれもこれもしゃべれます、字数も埋められます」みたいな、あの手この手でやろうとする貪欲な人が少ない。
そのせいか、やりたいと思っていた仕事が想像より十年ぐらい早く来てしまう状況で。未熟だったな、言葉を間違えたなとか、勉強不足だったなとか、そんなことの繰り返しですけど。
レジー 中学生から、ある種「好きなことをなんでもやる」という未来像が見えていたというのは、すごいと思う。
僕が社会に出たのは20年ちょっと前ですが、当時は大学を出て社会人になることって、自分が好きだったことや、やりたかったこととの決別として捉えられる空気が強かった気がします。僕なんかは「まだ音楽聴いてるの?」と言われたり。
一方で、今は「推し活」という考え方が広がって、大人が堂々と自分が好きなことや、趣味を語れるようになった。「推し活」という言葉自体は正直あまり好きではないのですが、こういう状況自体はすごくいいことだと思っています。
僕は会社勤めをしながらブログでポップミュージック論を書き始めて、その結果として今がある。働いていても職場や家族以外の世界を持つことはできるし、その世界があることがより深く自分を知ることにつながるというのは、もっと伝えていきたい部分ですね。
「芸風」が宿るのは、「ちゃんとしていない×心地よい」領域

レジー ここまで話してきた「ルール」と、大島さんが前編で言っていた「ちゃんと」という言葉はつながっている気がします。
僕自身は「わりとレールに乗って、会社でちゃんとサラリーマンをやっている」という自己イメージがあるんですが、このときの「ちゃんと」は、設定されたルールにのっとっているという意味だと思うんです。始業時間に遅れないとか、提出物の締め切りを守るとか。
でも、ちゃんとしたものの中に、ほどほどにちゃんとしていないものを入れ込むこともできる。そして、ちゃんとしていないものの中にも、心地よいものと心地悪いものがある。その「心地よい、ちゃんとしていなさ」が、『ビジネスパーソンのための「芸風」で書く技術』で言いたかった「芸風」に近い気がするんです。
ちゃんとしている場の中に、そういうものをしれっと置いておくと面白い。メールとか企画書とかプレゼンとか、会社で文章を書くシーンでも、じつはそこでけっこう楽しめると思うんですよね。
大島 面白いですね。整理すると、「ちゃんとしているか、していないか」というX軸と、「心地よいか、心地よくないか」というY軸で、4象限マトリクスにできそうです。
大島 たとえば、「今回はA案を採用するけど、君の案も面白かったよ。ありがとう」みたいなもの。そういうものも評価されていいと思うんです。
ちゃんとしている「正解」だけの世界だと、D案、E案、F案みたいなものを出す人は評価されなくなる。それは、すごくよくない。
一方で、ちゃんとしていなくて心地よくないものは、ただの逸脱やルール違反、失礼です。ちゃんとしているけど心地よくないところには、前編で話した言語化カードゲームやカラオケみたいなコミュニケーションがある。
レジー その分類、本に書けばよかった(笑)。
大島 レジーさんに「ちゃんと」の研究を書いてほしいですね(笑)。でも、この『ビジネスパーソンのための「芸風」で書く技術』も、ただかっちり便利な文章を書くのではなくて、そこに芸風を乗せるという意味では、ずっとこの「心地よい、かつ、ちゃんとしていない」ところの話をしているんだと思います。

* * *
「ちゃんと」と「心地よい」の四象限から芸風を探ってきた二人。後編では、「ディグる体力」や選択肢をあえて狭める意味、さらに「アルバムを聴け」という提案まで、自分の意思で選ぶための「芸風の育て方」に迫ります。
メイキング・オブ・『ビジネスパーソンのための「芸風」で書く技術』

7/29発売の批評家・会社員のレジーさんによる新刊『ビジネスパーソンのための「芸風」で書く技術』にまつわる新連載です。連載単体だけでなく、書籍の番外編としても楽しめる内容になっています。










