「芸風」という言葉を、本職の芸人はどう読むのか——。レジーさんの新著『ビジネスパーソンのための「芸風」で書く技術』刊行記念の特別対談・第2弾! お相手は『なぜあなたの感想はふつうなのか 独自の視点で語る技術』の著者・大島育宙さんです。“ビジネスに効く言葉”をスピーディーかつテンポよく繰り出すことがよしとされる今、自分の感覚や言葉をどう守るのか。現代の「書くこと・生きること」のリアリティを探ります。
<構成・文:田邉愛理 撮影:植 一浩>
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「芸風」は、芸人だけのものなのか

レジー 今日は大島さんにお会いできるということで、ぜひ聞いてみたかったことがあるんです。
この本は「芸風」という言葉を使うことで、文章を書いたり、働いたりすることの何かを言い当てられないか、という発想が核になっています。実際に芸人として活動されている、いわば本職の大島さんからすると、この使い方をどう思われるのかなと。
大島 実際、「芸」って興味深い言葉ですよね。ある種の宗教性を持ってしまった言葉でもある。私は自分からはもう「芸人」とは名乗りません。そう名乗ると「おまえは芸人じゃない」と言いたいだけの人が登場したりするし、けっこう取り扱い注意の言葉でして。
この言葉に初めて「ん?」と思ったのは学生時代で、僕がプロのお笑い芸人さんの模倣をしつつアマチュアの学生お笑いの世界で何とか研鑽や表現を頑張っていた時期に、SNS好きの同級生たちが「◯◯芸」「◯◯芸人」みたいな表現を使うようになったんですよ。『アメトーーク!』のノリで「私、酔っ払うと眠くなっちゃう芸人だからさ」とか。「酔っ払うと眠くなっちゃうからさ」でいいのに。
レジー ありますよね(笑)。
大島 2000年代以降、お笑いが細分化しながら強くなっていく中で、「芸」とか「芸人」という言葉が、その本義以上にその場の顔色をうかがうことや、「キャラ」と近い意味で使われるようになった。僕はその現象と一緒に育ってきたので、小・中学校のころから芸風みたいなものを意識していた可能性があります。ある意味、子どものころから芸人だったとも言えなくもないかもしれない……。
そう考えると、レジーさんのこの「芸風」という言葉の使い方は、言い過ぎというか、言い当てすぎというか……(笑)。
レジー なるほど。それなら良かったというか、何というか(笑)。
大島 そうなんですよ(笑)。ただ、ちょっと疑問をお返しすると、その「芸風」という自意識みたいなものを社会人がみんな背負うことで、逆に息苦しさが加速することもあるんじゃないかと思ったんです。
「自分らしさ幻想」を、芸風で反転させる
大島 たとえば少人数のコミュニティーなら、芸風なんて意識しなくても成立すると思うんですよね。3人家族、5人家族くらいなら、お父さんや長女に芸風は必要ない。
つまり「芸風」が必要になるのって、かなり大人数で、流動性の高いコミュニケーションなんじゃないか。中小企業というより、都市部の大企業みたいなものが、無意識の前提として織り込まれているのかな、とも思いました。
レジー そのご指摘はそのとおりだと思います。僕自身がわりとそういう経歴を歩んできたので、良くも悪くも自分が想像できる範囲の話になっている自覚はあります。
それこそ『ファスト教養』のときも、誰か特定の人というよりは社会全体に向けて書いたつもりでしたが、「『イシューからはじめよ』なんて勧められても読める人は少ないだろう」と言われました。そこは本当に思い至っていなかったんです。
しかし今回は、やや乱暴な言い方ですが、それはそれでいいかなと。僕は、語れる範囲にどこまで責任を持てるかというのは大事にしたいなと思っています。まずは自分の話をわかってくれそうな人に深く届けたい。『ビジネスパーソンのための…』というこのタイトルも、少し意図的に、その射程をあえて狭めている部分があったりします。
もう一つの「芸風を求めると逆に息苦しくなるんじゃないか」という話は確かにちゃんと考えるべきテーマで、「自分らしさ幻想」を持つことの難しさってありますよね。なんなら、そんなことは考えないほうが楽なんじゃないか、という気もする。
ただ、この本では、そこを反転させられないかなとも思っていて。何を良いと思うか、逆に何をよくないと思うか。そういうものは誰にでもあるはずで、無理に押し込める必要はない。
「自分らしくあらねば」と頑張って芸風をつくるのではなく、もともと自分の中にある基準を自然に表現できるようにする。そのためのツールとして「芸風」を使えたら、むしろ生きやすくなるんじゃないか。そっち側に振れるといいな、と思いながら書いていました。
「言語化ブーム」に乗らない一派がいた

大島 じつは僕も『なぜあなたの感想はふつうなのか』で、同じような指摘を受けました。テレビ番組でこの本が紹介された時にSNSでは「別に感想で悩んでないけどな」と反応されたり……「じゃあ読まなくていいよ」という話で、自分がターゲットではないのに反応してしまうのも、なかなかの現代病だなと思うんですけど。
僕は普段、ビジネス書やハウツー本をあまり読まないので、類書がないつもりでこの本を書いたんです。ところが出してみたら、めっちゃあって(笑)。レジーさんの本もそうですし、田村正資さんの『独自性のつくり方』、町田康さんの『俺の文章修行』、土門蘭さんの『ほんとうのことを書く練習』も、かなり近い。
表面的な言語化ブームには懐疑的だけど、「言葉にしたい」というニーズや悩みは確かにあると把握している。そして、それを解消するためには、小手先の言葉以前に自分自身を見つめ直さなきゃいけない。そう考えている一派が明確にいることを実感できた。
本を出したことでそこが自分の中で可視化されて、「よかった、孤独じゃないんだ」という連帯感をすごく感じましたね。
レジー 田村さんが意図的に繰り返している「自己満足」という言葉には、僕も影響を受けています。自己満足って行きすぎると独りよがりになりますけど、他者の目線が入ってくる前に、まず自分が何をいいと思えるのか。それがすごく大事だと思うんです。
いわゆる意識が高い層、NewsPicks的な言語化ブームには、どちらかというと他者の目線しかないんですよね。その場をうまく取り仕切れるとか、「うまいことを言った」と評価されるとか。
大島 それっぽく円滑に成立させることに重きが置かれている。
レジー 「言語化できないとビジネスパーソンとしてレベルが低い」くらいのことを、臆面もなく書いている本もありますよね。そこへの義憤というか、どう対峙していくかという思いは僕もありました。
「ビジネスパーソン」であり、「ライフパーソン」でもある
大島 そもそも「ビジネスパーソン」という言葉自体、僕はかなり欺瞞的だと思っています。「ビジネスパーソンは」と言い出した時点で危機感をあおって、アテンションを集めようとしている。だけど、じゃあ飲食店でバイトしている高校生はビジネスパーソンじゃないのかといったら、そこに境目はないと僕は思うんです。
「自分はビジネスパーソンである」と自己規定した瞬間に、「人生のこの10年間は仕事を頑張るんだ」と言って、生活を捨てるみたいな感覚が前提にあるような。人間はビジネスパーソンであると同時に、ライフパーソンでもあるはずなんです。それなのに、受験、就活、転職と短距離走を繰り返しているうちに、自分が何を好きで、何を心地よいと思うのかを自分で決めることに不慣れなまま来てしまう。
レジーさんはそこにあえて刺しに行くことで、ターゲットを明確にしていると思いました。別の一派、セルフケアとして文章を書きたい人のための本ではないという線引きを、すごくジェントルにやっているなと。
レジー その観点でいうと、僕自身も半分に引き裂かれているところがあるんですよね。「ビジネスパーソンって言葉、ちょっと変じゃん」と思っている自分と、そういう言葉が流布しがちな会社の世界でちゃんとサラリーマンをやっている自分と。
そもそも「社会人になる」「社会に出る」という言葉も変じゃないですか。それまでは社会じゃなかったのか、と。
大島 家族も社会だよっていう(笑)。
レジー そうそう(笑)。「社会=会社で働くこと」という構図が成立する人たちにとってはそのメタファーが成立するわけですが、こういう違和感は至るところにある気がします。
でも僕は、どちらも偽っているつもりはないんですよ。 その両方が重なっているところに、自分のコアみたいなものがある。そのコアに、何を面白いと思うか、何を嫌だと思うかを判断する大事なものが詰まっているんじゃないかなというのが、今回「芸風」という言葉で言いたかったところです。
「言語化」がカードゲームやカラオケになる時代

大島 非常に面白いですね。さっき「ちゃんと」という言葉が出てきましたが、「ちゃんと」とは何か、というところに僕はすごく興味があって。
いまは「ちゃんと」の幅が、どんどん狭くなっている気がするんです。多様な生き方が肯定されているはずなのに、アーバンなトップ層を目指すレースの中では、「ちゃんと感」が偏狭になっている。
その「ちゃんと」の世界では、言語化がカードゲームになっているなと思うんですよ。ごく限られた、かっこよく賢そうに見える言葉を、いかに素早く出せるか。それを「言語化」とずっと言っていますよね。
レジー そう言われると、「3つあって」のカードを最初に出すのが勝ちパターン、みたいなゲームに思えてきました(笑)。
大島 そうなんですよ。言語化や言語化力という言葉を最初に使った人、名付けた人は確かにすごい。でも、その物真似はもう「それ、カラオケだから」という話で。
仕事の現場でも「何を言ってるのかわからないな」と思う人に出会ったとき、もちろん自分もそう思われている可能性は考えなきゃいけないですけど、「この人カラオケやってるんだ」と思うことはよくありますよね。
言語化カードゲームや、言語化カラオケをやること自体は自由ですよね。でも、それをオリジナルソングだと思って歌っているのは、めっちゃ怖いよということは言っていかなきゃいけない。
芸風とは、便利さへの「摩擦」である
大島 先ほど、僕が類書として恐れ多くも挙げさせてもらった本たちと、レジーさんの本で共通するところは、やっぱりそこに芸風があるということです。ただのハウツー本ではなくて、「これは私が書いているんだ」という自我がちゃんと出ている本が好きなんです。ある種、自己紹介にもなっているというか。
僕自身『なぜあなたの感想はふつうなのか』は初の単著だったので、自己紹介やエッセイのニュアンスも入れて、大島育宙を知らない人にも届くように作りました。感想を語るためのハウツーとして読んでもらってもいいし、社会時評として読んでもらってもいい。自伝的な部分もあります。
そういう本って、ときには「これ言わなくてもいいんじゃない?」ということまで書いてある。でも、そこに書いた人自身が表れている。そういう、ちゃんとしていないノイズが入っているから面白いんですよね。
だから芸風というのは、ある種、便利さに対する摩擦みたいなものなのかもしれません。便利な情報としてスルッと流れていくものは、意外と残らない。でも摩擦があると、そこで少し速度が落ちて、そのぶん心や体に滞留する。
レジー いまの大島さんのお話は、 AIのアウトプットとは全部逆なんですよね。AIには摩擦がない、めっちゃ便利、めっちゃ速度が速い。さっき話した「言語化カードゲーム」の目指す先は、人間がそれをスピーディーにやれることだった気がするんです。でもそこは、今後AIに駆逐されうる領域かもしれない。
では、人間に残るものは何なのか。たぶんそれが人間が書くことの価値であり、生きている意味みたいなところにつながっていくのかなと、大島さんの言葉であらためて思いました。

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「芸風」とは、便利さのスピードを落とし、心や体に何かを残す「摩擦」なのかもしれない。文章の書き方を超えて「生き方の問題」へと行き着いたレジーさんと大島育宙さん。続く中編では、老いの先にも残る面白がる力や、自分でゲームのルールをつくる感覚をめぐり、二人の対話がさらに深まっていきます。
メイキング・オブ・『ビジネスパーソンのための「芸風」で書く技術』

7/29発売の批評家・会社員のレジーさんによる新刊『ビジネスパーソンのための「芸風」で書く技術』にまつわる新連載です。連載単体だけでなく、書籍の番外編としても楽しめる内容になっています。










