本コーナーで展開されていた、作家・宮田珠己さんの人気連載『衰えません、死ぬまでは。』が書籍化されました。
47歳のphaさんと、69歳の仲野徹さん、お二人から共感いただいた(推薦いただいた)還暦エッセイ! 宮田さんが突然「筋トレ宣言」しちゃった、その理由とは――。あらためて、こちらの試し読みで、お楽しみください。

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第1話 熟年モラトリアム
筋トレをしなければ、と突如思ったのだった。
といってもそれは、ダイエットのためではない。
いや、多少はダイエットのためではあるかもしれない。私は見た目は太っていないので、私を知る人は肥満とは無関係と思っているにちがいないが、いつの頃からか健康診断でエコー(超音波検査)等を受けると、決まって内臓脂肪の多さを指摘されるようになった。
どうやら私の体にも、知らないうちに招かれざる客が集まってきていたらしい。
世にいう隠れメタボというやつである。
肥満など別世界のできごとと、これまで気にかけたこともなかったが、別世界ではなくこの世界のできごとであった。
そうと知ってみれば、たしかにお腹だけ少し張り出しているような気もする。服を着ればごまかせるレベルではあるものの、メタボには変わりない。 なので、ダイエットの必要性がないとは言えず、運動したほうがいいのだろうなあとは漠然と考えていた。
だが、それと今回のこととは関係がない。
逆三角形のかっこいい体になって、異性の目にとまろうと考えているわけでもない。ボディビルダーのような体になりたいと思ったことは人生で一度もない。
聞くところによると、歳をとってきたら少し太っているぐらいがむしろいいらしい。長生きするのはそういう人だそうだ。
そういう意味ではメタボでもいいのかもしれないが、だからといってさらに太ろうと思うこともなく、というより、もはや肉体のことなどまるで頭になく、とくに運動もしないまま、どんな体型であれ、なるに任せて生きているのが現状だ。
そんななか、突然の筋トレ宣言。
なんのこっちゃと人は思うだろうし、自分でも思うが、もし誰かに、なぜ急に筋トレなんですか? と理由を聞かれたらこう答えたい。
「おぼろげながら浮かんできたんです。筋トレという文字が」
浮かんできたものはしょうがないのである。
まあ、あとから思うに、私の思考回路が筋トレという苦行を思いつくに至ったのは、体力の著しい減退がきっかけだ。
最近、体力が衰え過ぎている。
自分でもちょっと予測できなかったほどの衰えっぷりだ。
最初に体力の著しい衰えを感じたのは、40代の半ばであった。それまでも35歳を過ぎたあたりから、徹夜が厳しくなり、外食時には、ついいつもの癖で大盛りを注文してしまって食べきれないという失態を何度もおかしたりして、体力が坂を下りはじめていることに気づいてはいた。
それでもなんとなく体の持つ底力を感じていたので、体力が落ちたなら落ちたなりに、徐々にその変化に順応しようとしていたのである。
ところが、そんな矢先、突然下り坂が終わった。
下り坂の終点が不意にあらわれた。
体力が下げ止まったのではない。坂がなくなり、その先が崖になっていたのである。
20代、30代の頃、この先やってくるであろう体力の衰えを下り坂としてイメージしていた。
誰もがそうだと思う。
体力の衰え=下り坂。
と漠然とイメージしているはずだ。
実際30代のうちは、だんだん衰えているという実感があった。
ところが、40代の半ばに下り坂は突然崖に変貌する。一気に体が思うように動かなくなった。
え、こんなに体が重いの?
あまりの急激な衰えっぷりに、何か病気でも隠れているのではないかと思わず病院で診察を受けたぐらいだ。
結果はただの老化。
知らなかった。40代半ばにこれほどの崖があるとは。体力の衰えは、一定の勾配をもった下り坂ではなく、ある時から崖になっているのだった。
それで思い至ったのは厄年というやつである。42歳は男の厄年と言われている。
そうか。厄年は迷信でも占いでも何でもなく、純粋に肉体的な落ち込みが襲ってくる年齢ということだったのか。
それからは転げ落ちるようだった。一度失われた体力は回復することなく、さらに下っていく。50代も半ばになると、もうへろへろである。
だが最終的に何が私に筋トレを決意させたのかというと、体力の衰えが遠因であるには違いないが、直接の原因は別にある。
どうも最近、運気が下がっている気がしてならないのだ。
いや、とりたてて何かひどい目に遭ったというわけではない。
たとえば、本が思ったほど売れないとか10年間ロトを買い続けても当たらないとか、そんなのはよくあることだし、先だって4日かけて取材した原稿が掲載見送りになったことや、連載していた雑誌が休刊になったこと、わが家の庭に野良猫が糞(ふん)をしまくり昨日など 10個も見つかったぐらいのことは、大迷惑ではあるものの、重大な事件ではない。
何かひどい不運に見舞われたのではなく、老後資金の心配や、親の介護問題、子どもの教育費、体力の落ち込みなどいくつかの要素があいまった結果、気持ちが盛り上がらないというか、日々パッとしないというか、これといってとくにいいことが起こらないのが、昨今のわが運気の現状なのである。
そのせいで、未来を考えると、この先も何もいいことがないような気がして落ち込むのだった。
人生の終わりが見える。
この崖を下っていった先に終点が見える。
人間必ず死ぬのだから、終点が来るのは仕方がない。
しかし終点までの道筋が見えているのは、いかがなものか。
この先どうなるかわからない、何か面白いことが起こるかもしれない、そう思うから生きていて楽しいのであって、このまま単調な坂を下っていくなんて、想像するだに恐ろしい。
そして残念ながら、この先上り坂になる気がしない。
こうしてみると、運気が下がっている気がするのは、更年期ウツか不定愁訴(ふていしゅうそ)みたいなものなのかもしれない。
病気というわけではないから、冷静に考えれば、これはつまり体力の減退により、気弱になってきていると考えられる。
体力が衰えると、それに伴って気力も衰える。
気力が衰えると、いろんなことが楽しくなくなっていく。
好奇心は摩耗し、これまではワクワクできたことが、楽しく思えなくなって、行動範囲も狭くなり、ますます楽しいことに出会わなくなって、どんどん負のループに陥っていく。
昔ならこのへんで隠居し、あとは子どもに任せるみたいな話で済んだのかもしれない。働くのをやめ、ただボーッと生きていけばよかったのかもしれない。
だが、われわれはそうもいかない。老後の資金など全然足りないわけで、働き続けなければならない。
読者はもうおわかりであろう。
私が筋トレをやろうと決意した理由。それは未来を変えるためだ。
未来に何か、今は想像もできないいいことが起こるよう、人生の流れを変えたいということだ。
流れを変えるなら、筋トレなんかではなく、たとえばどこか遠くへ移住するとか、仕事も変えてしまうとか、そこまでやれと読者は思うかもしれない。だが、どっちの方向へ変えたいのかさえわからない。
20代の頃、自分の将来が見えず、気持ちばかり焦るわりに、何をしていいかもわからない時期があった。30代で辛くもそれを脱し、自分の道が見えたと思ったが、老化を前にしてまたしても同じような状況がやってきた。寿命が延びたせいで、二度目のモラトリアムがやってきたわけである。
仮にこれを熟年モラトリアムと呼ぶとしよう。熟年モラトリアムと青年期のモラトリアムの違いは、青年期のモラトリアムには未来がどっさりあり、熟年モラトリアムにはそれが少ししかないことだろう。
だがたとえ少しであってもせっかく未来があるなら、楽しく充実した時間を過ごしたいではないか。
そしてもうひとつの大きな違いは、体力である。体にパワーが漲っているにもかかわらず、その持っていき場がないのが青年期のモラトリアムであるのに対して、熟年モラトリアムはその持て余す体力がない。持て余すのは体力ではなく、とくにパッとしそうにない時間なのである。
ああだこうだ理屈を重ねていてもしょうがない。
私は自分に活を入れ、このモラトリアムを乗り切るため、人生を活性化させなければならない。そのためにはまずは健康と体力であり、思いついたのが筋トレなのだった。
果たしてそんなことで人生が変わるのか。
そもそも30年以上ろくに運動もしていなかった人間が、筋トレなど続けられるのだろうか。そんな気力さえもないというのが正直なところだ。
しかしやらなければならない。
でもしんどいからやらないかもしれない。
どっちやねん。
とりあえずマットとダンベル、そして腕立て伏せ用のプッシュアップバーを用意した。
まずは筋トレにちゃんと取り組むよう、自分を追い込むところからである。
衰えません、死ぬまでは。

旅好きで世界中、日本中をてくてく歩いてきた還暦前の中年(もと陸上部!)が、老いを感じ、なんだか「運気」も下がっている気がして、悶々。
いざ、まじめに老化と向き合おうと一念発起!……したものの、自分でやろうと決めた筋トレも、始めてみれば愚痴ばかり。毎朝の”バターしみしみパン”もやめられない。
はたして、「老い」と戦えるのか?「運気」は上がるのか?
怠け者作家が、老化にささやかな反抗を続ける日々を綴るエッセイ。











