
彼女が出産したという投稿が偶然SNSで流れてきて、心の底から「ああ良かった」と、思った。
出産が確実に幸福に結びついているわけではない。それは分かってる。でもそれを報告する彼女の言葉や写真はぴかぴかしていて、少なくとも今現在、彼女が誰かや何かに愛されたり愛したりしているのだと信じることができた。
ああ良かった。
彼女は今も元気に暮らしている。それだけでとにかく良かった。なにか重いものを下ろせた気がした。そうして彼女の出産報告を眺めながら、わたしは思わず泣いてしまったのだ。彼女とは会ったこともないというのに。
わたしが泣いたその理由を彼女は知らないし、一生知ることもないだろう。
かつて、わたしは彼女を助けなかった。
彼女のことをわたしはほとんど知らない。芸能活動をしながら高校に通っていて、水着のグラビアなんかもやっている女の子だった。卒業と同時に連続ドラマの脇役に抜擢され、それで東京に出てきたんだったと思う。彼女と同じ事務所に所属する俳優の男の子と友達だったので、「今うちの事務所が押してる子」だと、彼女の話をときおり聞いていた。
数人で遊んでいるとき、その男友達に電話がかかってきた。たくさんの映画に出ている男の先輩からで、今すぐ居酒屋に来いと言うのだった。夜の十二時近かったけれど、「ごめん行かなきゃ」と彼は席を立った。芸能界はそういう急な呼び出しに対応しなきゃいけないところだと当時のわたしは思い込んでいたので、解散して家に帰った。
後日彼に会って「そういえばあれはなんだったの」と尋ねたら、彼は憮然として答えた。
「最悪だった」
指定された居酒屋についたとき、そこには彼を呼び出した先輩と、号泣している先述の女の子しかいなかった。何が起こったのかときょとんとする彼に、先輩は「彼女を家まで送れ」と言ったそうだ。先輩はそれだけ言うと、彼と彼女を残しさっさと去って行ったという。終電もない時間だった。
彼は彼女が泣き止むのを待って何があったのかを聞いた。彼女は先輩に「芝居の話をしよう」と呼び出されてここに来た。最初は仕事の話をしていたが、そのうちに、このあと俺の家に来い、自分と性交渉をすることで女優として花開くのだからそうするべきだ、そうできないとお前は女優として失格だ、と言われたのだと言う。彼女は拒否した。それでも「だからお前は駄目なんだ失格だ人としても女優としても」と人格攻撃をされ続け、ついに彼女は泣き出した。少し名の売れていた先輩は他の人たちに見られ「誤解」されるのが嫌で、後輩である彼を呼び出して泣いている彼女を押し付け、自分は逃げるように帰っていったのだった。当時、彼女は二十歳になったかならないかぐらい、先輩は三十代の後半だった。
結局彼は彼女をタクシーに乗せお金を渡し、自分は自転車で家に帰った。
「なんて声かければ良かったのか分かんなかったから何も言えなかったんだけど、女の子は大変だなと思った」
彼もまだ二十代の駆け出しの俳優だった。どうしたらいいのか分からない中で、「何も言わず」「タクシーに乗せた」というのは、できる限りのことだっただろう。「忘れなよ」「大したことじゃない」「君にも隙があった」など、絶対に言ってはいけない言葉を口にしてしまうよりは、黙っていたほうが断然ましだ。
なぜ二人きりで飲みになど行ったのだ、という人もいるだろう。でも物作りの世界で、「男だから」「女だから」二人きりにならないということは考えられない。わたしだって、担当編集者が異性であることはあるし、脚本家として男性監督やスタッフと二人で打ち合わせすることもある。同性としか作品が作れないなんてことをやりだしたら、それこそ女性が追い出されるだけだ。彼女はこれから俳優として生きていこうとする中で、先輩から何か学べると思った。その好奇心と知識欲をわたしは否定しない。そこに性的な我欲を持ち込むほうが当たり前に問題なのだ。
結局彼女は「公衆の面前で」「泣き出した」ことにより体は被害を受けずに済んだ。でもだから良かったね、なんて話ではない。
わたしは彼から話を聞いて、「そうなんだ、酷い話だね」なんて他人事みたいに相槌を打って、そしてその話を記憶の奥にしまい込んでいた。彼女を心配することさえしなかった。そのときのわたしはそれがどういうことなのか分かっていなかった。それはきっと「よくある話」なのだと思ってしまったのだ。
それから数年後、彼女は俳優を引退した。裏方に回ったらしいと風の噂に聞いた。
そしてまたさらにたくさんの時間が過ぎて、その先輩は性加害で告発された。それを知ったとき、目の前が真っ暗になった。雑誌で読んだ彼の「手口」は彼女がされたのとほぼ同じで、しかもその場所が密室に変わっていたのだ。
もしわたしが、彼女に起きた出来事をどこかで誰かに喋っていたらどうなっていただろう、と思った。
当時は、わたしが経験した出来事ではない又聞きの話を誰かに「言いふらす」のは、良くないことだと考えていた。告発は本人の許可を取らずにするべきではない。それはそうだ。でも名前を出さずに、こんなふうなことがあるかもしれないから気を付けてね、くらいのことが、もし多くの人の耳に入っていたら。
「二十も年下の女の子を口説こうとして泣かせて逃げた格好悪い男」の話くらいにしかとらえられなかったとしても、その先輩は行動を改めたかもしれない。そしてその結果、その後の被害者は出なかったかもしれない。
わたしが誰かの告発を多くの人が知る必要があると思うのは、この出来事があったからだ。加害者を晒し上げたり攻撃したりしたいわけではない。個人的な恨みとは別問題だ。誰かを助けられる可能性があるなら助けたいだけだ。
告発の信ぴょう性が証明されるまで慎重になるべきだという人たちはきっと、「助けられるかもしれなかったあの子」の顔が見えていないのだろう。わたしの頭には顔が浮かぶ。何人かの、何人もの、途中で夢を諦めて去っていった傷ついたあの子たちの顔が。助けられなかった/助けなかったあの子たちの顔が(ごめんなさい。助けられなかったあなた。助けなかったあなた。今もわたしは弱虫で非力で何もできない。力になれない。表舞台から、世界から消えてしまったあの子たちのことを考えることしかできない。口ばっかりだ。行動に映せない自分がとてもしんどい)。
だからわたしは心底嬉しかったのだ。あのときの女の子が今、幸福であってくれることに。
彼女があの頃とぜんぜん違う場所で、笑っていて、生きていて、子供まで産んでいる。嬉しかった。申し訳なかった。でも本当に良かった。
これが、会ったこともない女の子のSNSでの出産報告を見てわたしが思わず泣いてしまった、その理由だ。
愛の病

恋愛小説の名手は、「日常」からどんな「物語」を見出すのか。まるで、一遍の小説を読んでいるかのような読後感を味わえる名エッセイです。