
知人のダンス公演を観に行った。
ぎりぎりに劇場へ着くと、チケットを取ってくれた友人たちがすでにわたしを待っていてくれた。会うのは久しぶりだったからなんだか少し照れくさい気持ちで、「元気?」なんて言いながら手を振り近づいていく。
と、その中のひとりがわたしの頭を見て驚いた声を出した。
「髪が」
わたしはなんてことなく、うん、染めたの、と答える。
彼はまじまじとわたしの髪を見て、
「ピンク?」
と尋ねる。また、うん、とうなずく。そのときのわたしの髪はピンクに染められていた。といってもそこまでぱっきりとピンク色なわけではなく、よく見るとピンク、くらいのものだった。
「なんでピンク?」
他の友人たちも、あ、ほんとだピンクだーと言いながらわたしを見る。家にこもって随分人に会っていなかったから、それが特別なことだということを忘れていた。外側のことで注目されるとなんだか居心地が悪くなるものだから、わたしはへらへらと笑ってごまかす。
なぜピンクなのか。
尋ねられても特に理由はない。何色でも良かった。たまたまドラッグストアで手に取ったその染料を使ってみただけだ。自分でやったから適当で、ムラだらけだったかもしれない。
「わたしの髪が何色だろうと、もうどうでもいいんじゃないかなと思って」
わたしが言うと、わたしよりだいぶ歳若い友人たちはよく分からないという表情を浮かべた。そして、
「誉め言葉になるかどうか分からないけれど、若く見えますよ」
と言った。誉め言葉かどうかはわたしもよく分からなかったけれど、ありがとう、と答えた。
今までだってわたしの髪がどんな色であれどうでも良かった。誰にも迷惑をかけないし世界に貢献もしない。でもなんていうか、ようやくわたしは、髪をピンクに染めても大丈夫なくらいに世界から自由になった気がしたのだ。
何から自由になったのか?
年齢とか環境とか状態とか仕事とか他者の目とか? その中に、若い女でなくなったこと、も関係あるような気がするけれどもちろんそれだけじゃない。
子供の頃、ある一定以上の年齢を重ねた人たちの中に、変わった髪色の人がいるのを不思議に思っていた。多くは紫色だった。青とかグラデーションの人とかもいた気がする。とりあえず自然界では存在しない髪色だ。それを子供のわたしは綺麗だと感じたことがなかったし、むしろへんてこだと思っていた。ものすごく不自然だ。なんで黒とか茶色とか、せめて金髪とか白髪とか、世界に存在する髪色にしないんだろう。なぜわざわざ手間暇かけて、へんてこにするんだろう。そう思っていた。
今は分かる。
誰のためでもなく自分のためだけに「へんてこ」を選ぶのは、後ろ暗くて明るい贅沢な楽しみなのだ。
もしわたしが会社員だったらしなかっただろう。たとえば小学生の子供がいてもしなかったかもしれない。名家に嫁いだ主婦でもしなかったし、王族の人間でもしなかったし、医者でも教師でもしなかった。他者に見た目で判断されやすい状況や肩書では、へんてこを選ぶのに勇気がいる。
そう言う意味で、ピンクの髪にできたわたしはそのとき確実に自由だったのだ。
それから二か月がたって髪の色はすっかり落ちて、もうピンクではなくなってしまった。けれどそのとき撮った写真の中のわたしの髪は、自分で思っていたよりもずっとずっとピンク色をしている。似合ってはいない。黒髪の人たちの中でかなり「へんてこ」に写っている。
この先また髪をピンクに染めることはないと思う。別にピンクだから何だってこともなかったし、誰かに髪色のことを言われたのはこのときだけだったから、想像以上に誰もわたしの髪を気にしていないのだろう。あるいは、触れられないくらい大惨事だったのかもしれない。
でもあのとき、なんとうなくピンクを選んで良かったな、と思う。
自分は髪をピンクにしたことがある人間なのだという事実は、いつかふとした瞬間に、わたしをにやにやさせてくれる気がする。
愛の病

恋愛小説の名手は、「日常」からどんな「物語」を見出すのか。まるで、一遍の小説を読んでいるかのような読後感を味わえる名エッセイです。