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愛の病

2024.02.05 公開 ツイート

大変良好視界世界 狗飼恭子

 町を歩いていると、並んで歩いていた知人がふと足を止めた。

「××がありますよ」
 知人は道路の向こう側にあるお店の看板を指さしていた。距離にしておよそ10メートル先。わたしは、ああうん、なんていう不明瞭な声を出しお茶を濁そうとする。すると知人は不思議そうな顔をして、もう一度確認するようにゆっくりと言った。

「××、ありますよね?」
 その視線があまりにまっすぐだったので、わたしは観念して、本当のことを言ってしまう。

 

「あるかもしれないけれど、見えないから分からない」
 意外な答えだったようで、知人は驚いたような表情を浮かべた。わたしは慌てて笑顔を作り「乱視なの」と言葉を続ける。

「ピントが合わないだけで大まかには分かるよ。今目の前にいるきみの顔も表情も見えるし、遠くの信号が赤であることも分かる。山とか木とか大きなものはもちろん見える。でも標識の文字とか、看板に何が描かれているのかはぼやけて読めない。人の顔も全部同じに見えるから、すごく近くに行くまで誰だか分からない。そんな感じ。そんなに問題ないよ」

 知人はあんまり理解していないのか興味がなかったのか、へえ、と返事をした。それでこの話は終わった。結局、その店があったのかどうかはわたしには分からなかった。

 その日の夜ベッドに入って一日の出来事を反芻しながら、漠然と後悔する。
 正しく世界が見えていないことを、人に言うべきでなかったかもしれない。知人が、ピントの甘いわたしの見るものを信用できなくなったらどうしよう。なんてそんなことまで考えて、うーうー唸りつつ枕に顔をうずめる。わたしはわたしの視界について、もっと深刻に捉えなければいけなかったのではないか?

 でも。
 とも、思う。

 そんなに悪いものではないのだ。このピントのずれたぼやけた世界は。わたしは、わたしの見ているこの世界のことを実は結構気に入っている。2・0の視力を誇っていた10年前よりも。

 わたしの視界を通した世界を、どう説明したら伝わるだろう。
 たとえばそれは古いフィルム撮影の映画のようだ。

 フィルムで撮った映画は、見せたいもの(たとえば喫茶店で主人公の手にしているティーカップ)にピントを合わせると、それ以外のもの──背景や、通り過ぎる人や、ときには主人公の表情まで──ぼんやりとする。はっきりクリアに見えるのはそのティーカップと主人公の指先。たとえばその指がささくれているか、マニキュアに色がさしてあるか。見えるのはそれだけ。まさに、わたしの視界はそんな感じだ。

 もちろん、はっきりと見えなくて困るときはある。映画館では字幕は読めないし引き画の場合俳優の表情も分からない。最近多い、主人公の携帯に届いたメッセージで物語る演出をされるともうお手上げだ。舞台を観るときは俳優の見分けがつかないから、体型や衣装や声で判断するしかない。

 でもそんなふうに困ったときは眼鏡をかければいいだけだ。眼鏡はいい。取り外しが簡単なのも素晴らしい。軽いし。小さすぎないからなくさないし。眼鏡という大発明への感謝を知ることができたのも、乱視になってからだ。

 ならば普段の生活でも眼鏡をかければいいと思うかもしれないけれど、でもそこまでの不便も感じていないのだ。ほとんどなんにも見えてないということに。

 だって映画や舞台を観るとき以外に、世界をはっきり見る必要ってある?
 見えなくても別にいい。想像できる。

 だからわたしの視界世界は、今日も大変良好なのだ。

関連書籍

狗飼恭子『一緒に絶望いたしましょうか』

いつも突然泊まりに来るだけの歳上の恵梨香 に5年片思い中の正臣。婚約者との結婚に自 信が持てず、仕事に明け暮れる津秋。叶わな い想いに生き惑う二人は、小さな偶然を重ね ながら運命の出会いを果たすのだが――。嘘 と秘密を抱えた男女の物語が交錯する時、信 じていた恋愛や夫婦の真の姿が明らかにな る。今までの自分から一歩踏み出す恋愛小説。

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愛の病

恋愛小説の名手は、「日常」からどんな「物語」を見出すのか。まるで、一遍の小説を読んでいるかのような読後感を味わえる名エッセイです。

 

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狗飼恭子

1974年埼玉県生まれ。92年に第一回TOKYO FM「LOVE STATION」ショート・ストーリー・グランプリにて佳作受賞。高校在学中より雑誌等に作品を発表。95年に小説第一作『冷蔵庫を壊す』を刊行。著書に『あいたい気持ち』『一緒にいたい人』『愛のようなもの』『低温火傷(全三巻)』『好き』『愛の病』など。また映画脚本に「天国の本屋~恋火」「ストロベリーショートケイクス」「未来予想図~ア・イ・シ・テ・ルのサイン~」「スイートリトルライズ」「百瀬、こっちを向いて。」「風の電話」などがある。ドラマ脚本に「大阪環状線」「女ともだち」などがある。最新小説は『一緒に絶望いたしましょうか』。

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