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愛の病

2024.06.11 公開 ツイート

波の音と眠る脳 狗飼恭子

 海の近くに住みたい。
 海辺のホテルに一人で泊まった夜から、ずっとそれを夢みている。

 もう随分前のことだ。ベランダから海までほんの数メートルしか離れていないホテルだった。その日は台風が近づいてきていて、海がすごく荒れていた。

 雨は降っていなかったけれど、早々にベッドに入った。
 他にほとんどお客のいない静かな日だった。瞼を閉じると、波の音はより強く耳に届く。台風前だからいつもより波の音は強かったろう。少しだけ不穏な感じもした。波の音に包まれて、わたしは眠りの中に落ちていった。

 

 深く深く、でもゆっくりと落下していく。
 それは、それまでの人生で一番心地よい眠りだった。

 それ以来、海辺に泊まるときは必ず窓を開けて眠るようになった。冬は寒すぎるし夏は熱すぎるし蚊に刺されまくったりもするけれど、それでも、波の音を聞きながら眠る幸福には勝てない。できることなら毎晩、海の音に包まれて眠りたい、そう思う。

 とはいえなかなか海辺に泊りにはいけない。海辺の家に引っ越したいけれど、そう簡単なことでもない。恋焦がれる気持ちは募る。そんなある日ふと、携帯で波の音を流して眠ったらいいのではないか、と気づいた。

 ベッドに入って電気を消したあと、適当にyoutubeで拾った波の音を流してみた。ざざん、ざざん、と音がする。携帯を枕元に置くせいで波音が近い。台風の夜くらい、波音も強く感じる。

 ときおり砂浜を歩く人の足音もする。波音を録音した人だろう。一体どこの誰だろう。どんな人の足音だろう。知らない誰かにも足がある、とへんてこなことを夢うつつに思う。そしてそう思った頃にはもう、眠りの中に落ちている。

 日本では、死んだら三途の川辺に行く。映画で橋を渡るシーンがでてきたらこの世とあの世をつなぐイメージであることは明白だ。でも海外の映画やドラマの中では、死者は海辺に行くことが多い。それは感覚的にもよく理解できる。海の音を聞いて眠ると、眠りは、死んで生まれることなのだなと実感する。

 海の音を聞きながら眠るようになって、気付くことがあった。
 それまでわたしは眠りに落ちる直前まで考え事をしていて、目が覚めた瞬間から考え事をしていた。『わたし』が起きる前にすでに脳みそが起きているのだ。「あー脳がまた考え事してたんだな」と客観しながら目を覚ます。ときには眠る前に懸案事項だったことの答えをさっと脳が差し出してくれることもあって、そんなときは『わたし』が寝ている間も考えていてくれた脳みそさんありがとうという気分になる。「小人の靴屋」なる童話もきっと、グリム姉弟が寝る前に思いつかなかったアイディアが起きたら浮かんでいた、ということなのだろう。だから朝起きて最初の感想が「あー疲れた」だったりするのが当たり前の日々だった(ちなみにこういう人は珍しくない。わたし調べでは)。

 しかし波の音を聞きながら眠るようになったら、脳がきちんと「睡眠」するようになった。朝起きたとき、脳より先にわたしとわたしの心が起きて、それからようやく「良く寝たな」と感じる。体の調子は大変いい。

 というようなことを担当編集者さんに話したら、
「最近、ちょうど脳科学者の方とお話ししたんですけど」
 と前置きして、彼女は言った。

 ・脳は寝ている間に記憶や情報を整理するものである
 ・朝起きて、脳が問題の解決策を発見しているというのは正しい状態である
 ・ これが、脳のひらめき力にもつながっている
 のだと、その脳科学者さんが言っていたというのだ。

 ショックである。

 せっかくよく眠れるようになったのに、それが脳の衰えを招く可能性がある、というのはあんまりだ(わたしの解釈なので、受け取り方が間違っているかもしれないが)。そういえば、一日十時間以上眠る人は認知症になりやすいと聞いたことがある。脳の動きを止めている時間が長ければ長いほど脳の動きが鈍るというのは確かに道理である。

 わたしは今、迷っている。
 (1)深く眠り、心と体の調子いい状態
 (2)脳を止めずに眠り、脳の調子がいい状態
 のどちらを目指して睡眠をとるべきか。究極の二択だ。

 波の音と眠りつつ脳も休みすぎない方法を、今夜、脳に考えてもらう予定だ。

関連書籍

狗飼恭子『一緒に絶望いたしましょうか』

いつも突然泊まりに来るだけの歳上の恵梨香 に5年片思い中の正臣。婚約者との結婚に自 信が持てず、仕事に明け暮れる津秋。叶わな い想いに生き惑う二人は、小さな偶然を重ね ながら運命の出会いを果たすのだが――。嘘 と秘密を抱えた男女の物語が交錯する時、信 じていた恋愛や夫婦の真の姿が明らかにな る。今までの自分から一歩踏み出す恋愛小説。

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愛の病

恋愛小説の名手は、「日常」からどんな「物語」を見出すのか。まるで、一遍の小説を読んでいるかのような読後感を味わえる名エッセイです。

 

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狗飼恭子

1974年埼玉県生まれ。92年に第一回TOKYO FM「LOVE STATION」ショート・ストーリー・グランプリにて佳作受賞。高校在学中より雑誌等に作品を発表。95年に小説第一作『冷蔵庫を壊す』を刊行。著書に『あいたい気持ち』『一緒にいたい人』『愛のようなもの』『低温火傷(全三巻)』『好き』『愛の病』など。また映画脚本に「天国の本屋~恋火」「ストロベリーショートケイクス」「未来予想図~ア・イ・シ・テ・ルのサイン~」「スイートリトルライズ」「百瀬、こっちを向いて。」「風の電話」などがある。ドラマ脚本に「大阪環状線」「女ともだち」などがある。最新小説は『一緒に絶望いたしましょうか』。

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