いつもだったら何を書くか大体決めてから文章を書くのだけれど、今回は、何も考えずに書き始めてみた。
わたしは物書きなのでいくらでも大袈裟に書くことはできる。
けれど今回は思うままに、素直に、単純に、どうでもいいことを話すように、ただ脳から直接指を動かしこの文章を綴ってみようと思う。これは100パーセント私信なので、おもしろエッセイをお待ちの方には本当に申し訳ない。でも今回は許してほしい。
作家になってもう随分と長い。とはいえここ最近は、作家、と呼ばれるよりも脚本家と呼ばれることのほうが多いし、その肩書きも随分としっくりくるようになった。それでも、わたしは自分で職業を名乗るとき、なるべく「作家・脚本家」としている。「脚本家・作家」ではないし、「脚本家だが、小説を書いたりもしている」でもない。ただ単純に「いろいろ文章とか書いてます」と言ったりもするけれど。
作家と名乗るわりには小説を書いていないし発表もしていない。だからもしかしたら「元・作家」になってもおかしくないのかもしれないけれど、でもわたしは今も現役で「作家」だと胸を張って言える。それはずっと、彼女がわたしの「担当編集者」でいてくれたからだ。
担当編集者がいるのだからわたしは間違いなく「作家」であり、今は書いていないだけでそのうち書く。自分でそう信じることができた。実際、彼女がわたしの担当編集者になってくれてから、わたしは、自分でもとてもよいと思う本を発表することができた。「よいと思う本」とは、物語の内容だけでなく、たとえばタイトルや表紙のデザインや目次のデザインやあらすじや、厚さや、紙の手触りや、本にまつわるすべてのことを含む。
わたしがあの小説を書いたのは、間違いなく「彼女が担当編集者だったから」であり、「彼女がわたしの担当編集者であるうちに絶対に一本は小説を書かなければ」と思うことができたからだ。その本がものすごいベストセラーになって彼女の人生をいい方向に変えることができたりしたならそれはそれで美しい物語になったのにもちろんそんなふうにならず、いつものわたしの本のように、特に話題にもされず、本屋で平積まれることもなかったけれど。
それでもときどき、SNSの荒波の中でその本の感想を見かけることができて、そのたびに努力が報われた喜びとこれからも書き続けられるかもしれないという作家としてのささやかな希望を抱くことができる。
すべてすべて、担当編集者である彼女のおかげだ。
わたしの担当なんかを10年以上もやって、いいことなんかなんにもなかったかもしれないけど、嫌なことも特になかったと思うし(本が売れない以外は。わたしは元来素行のいい人間であるので)、ということはきっとすごい思い入れたり記憶に残ったりしていないタイプで、年を取ってから「担当した中に面白い作家とかいなかったですか?」と聞かれたときに絶対名前が挙がるタイプではない地味なわたしだけれど、わたしが年を取ったときに万が一誰かに記憶に残る担当者の名前を聞かれたら、わたしは彼女の名前を挙げると思う。
手紙を書こうかなとも思ったけれど、わたしがあなたの担当した作家であることを証明するためにも、あえて職権乱用して、ここに記したいと思う。
今までどうもありがとうございました。
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愛の病
恋愛小説の名手は、「日常」からどんな「物語」を見出すのか。まるで、一遍の小説を読んでいるかのような読後感を味わえる名エッセイです。