つらい。
でもわたしなんかのつらさは、実際に彼女を知っていた人たちに比べれば足元にも及ばない。そして何より、彼女自身のつらさに比べれば。
わたしに何ができただろう。それをずっと考えている。
映画監督から受けた性加害について告発をしていた彼女のSNSがしばらく更新されていないことに気づいたのは、偶然だった。彼女のSNSに嫌な絡み方をしているアカウントがあったので気になって、こっそりときどき見に行っていたのだ。何も書きこまれぬまま時間が経って、何かあったのかもしれない、とずっと心配していた。
でもわたしは何もしなかった。ただときどきSNSを覗き、今日も更新されないな、と思っただけだった。
そしてある日突然、彼女の訃報を知った。
彼女の受けた被害について、報道以上のものは知らない。彼女に会ったこともないし、彼女もわたしを知らないだろう。多くの人から注視されることは負担になるのではないかと思い、SNSで話しかけることもしなかった(そう思ってしまったのは、わたしがそういう性格であるからで、本当の意味で彼女を慮ったわけではないかもしれない)。
わたしには何もできないし何もすることはないと思っていた。彼女を知る人たちや、加害者の罪を目撃した人たちや、なんらかの資格を持つ人たちが何かするのを、ただ待っていた。SNS、まだ更新されていないな、何かあったのかな心配だな、などと思いながら眺めていた。
傍観していた。
なんの弁明もできない。
わたしは彼女が苦しんでいるだろうことを知っていたのに、ただ見ていただけだったのだ。
何かできたはずなのに。
わたしは清廉潔白な人間ではない。言動も行動もたくさん間違いをおかしてきたし、今だっていろいろな社会問題に目をつむって生きている。だからわたしなんかが彼女や世界に対してできることがあるはずないと思いこんでしまっていた。
連帯を表明するだけでも被害者の力になるに違いない。それはそうなのだろうと思う。でもそれをするとき、わたしは自分の経験を思い出さずにはいられないだろう。自分の心の安寧にとって連帯を表明するのは危険だ、と客観する自分がいる。パンドラの箱は開けたくない。でも主観的な自分は、彼女を見殺しにしたのだと苦しんでいる。
考えろ。考えろ。考えろ。
わたしに何ができるのか。
大人になった今のわたしは、積極的に死にたいと思うことがなくなった。でも、死んだら楽になるだろうな、と思うことはいまだにある。きっと何歳になってもあるのだろう。その気持ちとは一生共存するしかない。それでもみんなが生き延びられる世界でなければ、生きる意味がない。わたしに行動ができるのか。どうしたら行動ができるようになるのか。
彼女は死んだ。わたし/わたしたちは彼女を助ける機会をなくした。
それを自分の罪として、傍観者たちこそが受け止めなければならないのだ。まずは彼女の訃報を多くの人が知らなきゃいけない。
もう誰も死なないで欲しい。自分の罪をあがなうために何ができるのか。もう一度立ち止まって考えている。
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愛の病
恋愛小説の名手は、「日常」からどんな「物語」を見出すのか。まるで、一遍の小説を読んでいるかのような読後感を味わえる名エッセイです。