
「選択的夫婦別姓」制度導入については、先日行われた参議院議員通常選挙でも、候補者それぞれのスタンスが問われました。しかし現状、国が同性婚を認めていないことについて、札幌地裁は「憲法違反」、大阪地裁は「憲法違反ではない」、と司法の判断は分かれています。どうして裁判所ごとに判断が異なるのか、大阪地裁判断に合理性はあるのか、私たちひとりひとりには何ができるのか。法律事務所Z代表の伊藤建弁護士にご寄稿いただきました。
目次 (タップorクリックすると各項目へスクロールします)
- なぜ裁判所によって判断が分かれるのか?
- 憲法が考える国のシステム
- 人事責任者に逆らえますか?
- 民主主義の限界
- 「司法権の独立」の本当の意味
- 大阪地裁がいうように「結婚」=「子を産み育てる関係の保護」なのか?
- 同性愛者でも子を産み、育てられる
- 「憲法」は社会を変えるための「武器」だ

なぜ裁判所によって判断が分かれるのか?
2022年7月10日、第26回参議院議員通常選挙が行われました。
この選挙の公示2日前の6月20日、大阪地裁は、同性婚を認めていない民法や戸籍法について、憲法に違反しないと判断しました。
加えて、大阪地裁は、同性婚を認めるか否かは「国会」の立法裁量だとしたので、参院選では、各政党の同性婚に対するスタンスが注目されたのです。
ただ、1年ほど前の2021年3月17日、札幌地裁は、この問題につき憲法が保障する「法の下の平等」に違反すると判断していました(同性婚の不受理、初の違憲判断 札幌地裁「差別的扱い」:朝日新聞デジタル)。
札幌地裁も大阪地裁も同じ日本の裁判所なのに、なぜ別の判断をすることが許されるのでしょうか?
その理由は、憲法が司法権の独立を認めているからです。憲法76条3項は「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。」ことを保障しています。
つまり、裁判官は、純粋に憲法と法律のことだけを考えるべきであり、国民世論や政権与党の意向を考慮すべきではないというタテマエになっているのです。
なぜ司法権の独立が必要なのかは、少し複雑です。この話を理解するためには、憲法が考える国のシステムを理解する必要があります。
憲法が考える国のシステム
憲法が、国家権力を3つに分けて、立法権を国会に、司法権を裁判所に、行政権を内閣に与えていることは、公民の授業で習った方も多いでしょう。このような仕組みを三権分立といいます。

「国家権力」というと、なかなかイメージがつかないかもしれませんが、簡単にいえば、国が私たちに何かを強制する力のことをいいます。
私たちが万引きをした少年を捕まえて、懲らしめるために自宅の部屋に閉じ込めれば監禁罪となりますが、国や地方自治体の職員である警察官が逮捕して留置所に身柄を拘束することは許されています。また、凶悪な殺人犯がいたとしても、遺族が殺人犯を殺せば殺人罪となりますが、国だけは、刑事裁判により死刑判決を下すことで、殺人犯の命を奪うことすらできます。
このように、国家権力というのは、憲法が許している暴力装置なのです。
しかし、暴力装置が勝手に作動してしまっては、私たちは安心して暮らせません。
だからこそ、憲法は、この暴力装置が誤作動しないような国のシステムを作っており、その一つが三権分立なのです。
憲法は、暴力装置が誤作動しないように、間違いが起こらないようなシステムと、もし間違ったとしても正すことができるシステムを用意しています。
前者は、国(内閣)が法を使って国民を支配する前に、国民の代表である国会が、あらかじめ法律を制定しなければならないことの保障です。
そして、後者は、国(内閣)による国民の支配が本当に間違っていなかったのかを裁判所がチェックできることの保障です。
人事責任者に逆らえますか?
しかし、ここでひとつ問題が生じます。
憲法は、裁判官を任命するのは内閣だと定めています。

細かいことを言えば、最高裁判所の長官だけは、内閣の指名に基づき天皇が任命すると定められていますが、天皇には実質的な決定権はありません。最高裁判事だけは、私たちが国民審査でクビにできます。それでも、誰を裁判官にするのか、その人を再任するのかを決めるのは、そのほとんどが内閣の権限なのです。
そうすると「裁判所が内閣に逆らうことができるのか?」という疑問が生じます。
もし、あなたがサラリーマンだとしたら、人事権を持っている役員や幹部に逆らうことはできるでしょうか?
おそらく、多くの人は、人事権を持っている人を表立って批判することはないでしょう。そればかりか、どうやって社長や人事責任者を満足させるかを考えるのではないでしょうか。
これを裁判官に置き換えると、人事権を持っている内閣の顔色をうかがって仕事をするようになってしまいます。これでは、せっかく国の行為を正すという役割を与えられても、公平な判断を期待することはできません。
政治家にコネのない国民同士の争いならば困らないかもしれませんが、刑事裁判や国民と国との争いの場合、内閣に都合がいい判断が下されることになってしまいます。
だからこそ、憲法は、裁判官は憲法と法律のことだけを考えればいいとして、司法権の独立を保障しているのです。
それだけでなく、憲法は、通常の裁判官に10年間の任期、相当額の報酬(年収600万~3000万円程度)を保障しています。最高裁判事の場合は、国民審査という国民がクビにできる制度はあるものの、任期は定年(70歳)まで、相当額の報酬(年収3000万円程度)が保障されています。
しかも、裁判官がどんな判断をしたとしても、再任されないことはありますが、在任中に報酬を減額されることもありません。
民主主義の限界
もちろん、平社員が人事責任者をクビにすることなどできませんが、国民は政治家をクビにできます。
自分に都合のいい裁判官だけを選ぶような内閣ならば、世論の力や選挙を通じて辞任に追い込むことこそ、民主主義では通常のルートです。
しかし、通常のルートだけでは限界があります。
その代表例は、多数決では決して勝つことのできない少数者の権利が問題となる場合です。
LGBTの方々は、多く見積もっても国民の10%程度しかいません。残念ながら、残りの90%の国民の多くにとって、LGBTの方々が結婚できるかどうかは、自分の生活とは全く関係がないのです。
しかも、高齢者の多くが同性婚に反対している以上、いくら若者が投票率を上げて戦ったところで、数で負けてしまうでしょう。
人口の50%を超える女性の権利が問題となっている選択的夫婦別姓ですら、世論調査で国民の多数を占めても、一向に立法が進まない現状で、選挙で同性婚が争点になったとしても、賛成派の国会議員が多数を占めることは「無理ゲー」ではないでしょうか。
そんな、民主主義ではにっちもさっちもいかない場合こそ、憲法の出番なのです。
憲法は、裁判所に対して、国会が作った法律や、内閣による法律の適用などが憲法に違反するかを審査する違憲審査権を与えています。
つまり、裁判所には、法律が同性婚を認めていないことが憲法に違反するのかを判断する権限があるのです。
「司法権の独立」の本当の意味
このように、憲法は、裁判所に対して、違憲審査権により、多数決では勝つことのできない少数者の権利を保護することを期待しています。
だからこそ、憲法は、裁判官に司法権の独立を保障し、裁判官に憲法と法律のことだけを考えて判断できるようにしているのです。裁判官は、どんなに国民や内閣にウケが悪いとしても、憲法や法律を正しく解釈し、少数者の権利を救うことこそが使命なのです。
もちろん、裁判官があまりにも常識と異なる判断をすれば、いくらクビにならないとしても、保守的な人を裁判官とする「裁判所乗っ取り計画」が実行されてしまうかもしれません(以前の記事「なぜ最高裁は夫婦別姓を認めないのか?弁護士が考える夫婦別姓を実現するための戦略」を参照)。
それでもなお、多数決で救われない人を救うことこそが司法の役割として期待されていることを忘れてはなりません。
大阪地裁がいうように「結婚」=「子を産み育てる関係の保護」なのか?
さて、話を同性婚に戻しましょう。
同性婚を認めないことは憲法に違反しないとした大阪地裁の判決は、本当に憲法と法律を正しく解釈しているのでしょうか?
憲法14条1項は「法の下の平等」を保障しています。平等とは、合理的な理由なくして異なる取扱いを受けないことを意味します。
結婚は、身分関係が公証され、これに応じて財産や子ども、相続などの様々な法的地位が詰め込まれたパッケージです。
現行法では同性婚ができないため、同性愛者は、これらの法的なメリットを一切受けることができません。同性愛者と異性愛者との間で、結婚による法的なメリットを受けられないという異なる取扱いに「合理的な理由」がなければなりません。
大阪地裁の判断が正しいといえるのかは、この「合理的な理由」が論理的に誤っていないか、説得的といえるか次第です。
明治31年に民法を制定したとき、生殖能力を持たない者の結婚を認めるべきかが議論されました。
その際、最終的には、結婚とは「共同生活を送ること」であり、必ずしも子を残すことのみが目的ではないと整理されました。
ところが、大阪地裁が述べた「合理的な理由」は、結婚には「子を産み育てる関係を社会が保護する」目的があるからという、明らかに制定過程に反するものです。
同性愛者でも子を産み、育てられる
また、現在の科学技術では、同性愛者であっても、第三者の精子や卵子によって子を産み育てることは可能です。必ずしも、子を産み育てることができるか否かと、同性愛者か異性愛者かは関係がありません。
百歩譲って、「異性愛者」と「同性愛者」とを比較した場合には合理的だとしても、「子を産み育てられない異性愛者」と「子を産み育てる同性愛者」とを比較した場合はどうでしょうか。
異性愛者であれば、子の有無、子をつくる意思や能力の有無に関係なく結婚によるメリットを受けられるのに、同性愛者は一切受けられないことに、合理的な理由はあるといえるでしょうか。
それ以外にも、大阪地裁は、同性愛者が望む相手と親密な関係を築く自由は制約されていないといいますが、ここで問題となっているのは、結婚によるメリットが受けられないことですから、問に答えているとはいえません。
また、法律で同性パートナーシップ制度を作ったとしても、新たな差別につながるおそれもあります(以前の記事「【札幌地裁判決解説】憲法違反でも同性婚が認められるとは限らない」も参照)。
こうして考えると、大阪地裁は説得力のある理由付けをしたとはいえません。
憲法は社会を変えるための「武器」
もっとも、司法権の独立により、各裁判官は思い思いの法解釈ができるわけですが、国としての判断がバラバラでは困ってしまいます。だからこそ、地裁の判断は暫定的なものにすぎず、最終的には最高裁が国としての統一的な判断を示すことになります。
最高裁の判断は、地裁、高裁、最高裁と3回の審理を経て行われるのが通常です。そのため、最高裁は、これまでの各地裁の判断や、これに対する法学者の見解など、あらゆる文献に目を通してから、最終的な判断を下します。
だからこそ、同性婚を認めるべきだと考えるならば、感情的にならずに大阪地裁を論理的に検証し、勝てる論理を一緒に考えていくほかありません。
万が一、最高裁が憲法に違反しないとしても諦めてはいけません。

憲法は、最高裁判事にも、憲法と法律のことだけを考えて判断すべきことを期待していますが、実際には「裁判所乗っ取り計画」のようなことがないよう、政治部門に配慮しています。
ですから、「司法権の独立」というタテマエがあるとしても、現実問題としては、私たち国民世論が、最高裁が同性婚を認めないのは憲法違反だとの判断を受け入れる土壌を用意することも必要なのです。
どんな結論になろうとも、諦めずに選挙で訴えつつ、国会にも働きかけをして、それでも実現しないという事実を作ることで、将来の最高裁の判断が変わる可能性は十分あります。
かつて、女子の再婚禁止期間や婚外子の相続分差別も憲法に違反しないとされていました。
当事者や法学者が戦い続けたからこそ、憲法違反との判決が下され、法改正が実現しました。
私たちは社会を変えられる。
憲法は、社会を変えようとするあなたの武器なのです。
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