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さすらいの自由が丘

2021.06.03 更新 ツイート

とりあえず歯は磨いておけ 今村三菜

私と妹、弟の3きょうだいが、小さい頃、小学校や幼稚園が休みの日曜日、歯を磨かずに裏通りで遊んでいると、母はそれぞれの歯ブラシに歯磨き粉をつけて、追いかけて来た。

「ミナちゃん、マユちゃん、ヨーちゃん、歯を磨かないお口の中は、ドブなのよ! 下水なのよ!」と叫びながら。

もうこの母の「お口の中がドブ、下水」という言葉はインパクトが強すぎて、全員、歯ブラシを握って、家の中に戻った。

 

それでも、小さい頃は虫歯になり、それが夜中に痛み出して、私はワンワン泣き、母が、歯医者である父を叩き起こして、真夜中に診療室に行き、治療してもらった。さらに、私は夜中に大アクビをすると、顎(あご)が外れてしまうことがあった。暗闇で、大口を開けたままヨダレを流し、顎関節(がくかんせつ)の痛みで涙を流しながら、父のパジャマの腕をビンビン引っ張り、父を起こして、両手で顎関節を押さえてもらい、カクッと顎をはめてもらった。父が歯医者で良かったと思った一瞬であった。

それ以来、私は朝晩、歯をよく磨き、思いっきり口を開けて、大アクビするのはやめた。

祖父が実家歯医者の1代目で、私が若い頃は、父と祖父が2人で診療をしていた。昼ごはんを食べている時も、話題は自然と歯の話しになることが多く、TVのCMで、デビューしたての今井美樹の歯を見ながら、父と祖父が、「この娘の歯、どうにかしてやりてーなー」と言っていたのを懐かしく思いだす。歯並びがすごく悪かったのだ。歯並びが悪いと歯を磨いても、ちゃんと汚れが取れないと言うのだ。

父と祖父の話から、私は、歯周病になるなどということは、お口の中の大事件だと思っていた。食事の後よく歯を磨かないと、歯と歯茎の間の歯周ポケットに歯垢がたまり、歯周病菌が繁殖し、歯がグラグラになって最後は歯を失うことになると、父と祖父から聞いて恐ろしく思っていた。しかし、ついに私もなってしまったのだ。

なんだか食後、食べ物が挟まるなあと思う箇所があり、そこの歯茎がムズムズと変な感じがしてきて、デンタルフロスでギシギシやってみたら、フロスに血がついてきたのだ。「げっ。これが汚いお口の中にできるという歯周病か」と、暗澹(あんたん)たる思いがした。


近年、私の主治医は、父から弟に代わった。父は病気をしてから、入れ歯の人しか診なくなったのだ。父は、昔ながらの真っ白な白衣を着て、院長室でコーヒーを飲みながら、新聞を読んだりしている。

実家歯医者3代目の弟は、歯医者が天職であったらしく、青いVネックの上っ張りを着て、診療室で、ユニットとユニットの間を蝶のように舞っている。「はーい。◯◯ちゃん、成長したね。全然泣かなかったね。次はこのおねえさん(衛生士さん)に歯を強くするお薬塗ってもらって終わりだよ」と言って、次の患者さんのところに行く。「△△さーん。お待たせしましたー。前回からどうでしたか。痛みませんでしたか」と言って、患者さんのおじさんの口の中を治療したかと思うと、私が座っているユニットに来て、いきなりテンションを落とし、低い声で、「はい。では、すごーく面倒くさいですが、治療させていただきます。口を開けてー」と言う。

その日は、食べ物が挟まりトラブルいっぱいだった歯に、いい歯を被せてもらう日だったのだ。その被せる歯は高い歯だったらしく、弟は、その作った歯を私の元の歯に被せ、ギューッと力を入れて手で押さえながら、「あー、もったいねー」ギューッと押さえて、「あー、もったいねー」と繰り返す。横では、男性のイケメン衛生士くんが、「ククククク」と笑いを隠せないでいる。

私がその日、1番してもらいたかったことは、スケーリングをして歯石を落として欲しかったのだが、次の患者さんがいるので、時間切れとなり、「お姉さんのスケーリングはまた次回で」とイケメン衛生士くんに言われてしまった。前回も時間切れでやってもらえなかった。せっかく新幹線に乗って治療に来ているのにだ。家族は後回しなのだ。だから、私はスケーリングだけは、自由が丘の近くの歯医者に行くことにした。

私のスケーリングは後回しにするくせに、弟は父にも増して、歯周病がもたらす恐ろしい話しをしてくれる。

最近の歯医者界のデータというのによると、歯周病を放ったままにしている人は、歯周病をしっかり治療している人と比べると、コロナによる死亡率は8.81倍、ICUの使用率は3.54倍、人工呼吸器の使用率は、4.57倍になるという。口の中を汚いままにしていると、肺炎の原因になるのだそうだ。

そして、静岡市の調べによると、地震などの災害に備えて、災害グッズを用意している人たちの中で、その中に歯ブラシ、歯磨き粉を入れていた人は、たった2割しかいなかったのだそうだ。災害の後、歯磨きの用意がなく、口の中のケアができず、誤嚥性肺炎で亡くなる人は多いという。

歯周病は、糖尿病も悪化させるだの、認知症にも影響を与える、心臓にも脳にも血管にもと、弟は言う。そういえば、歯医者の同級生も夫婦で「歯周病で死ぬのはイヤだ!」というキョーレツな題名の真っ黒い表紙の本を書いていたのを思い出した。

別れた夫が言っていた。「ミナちゃんと結婚して良かったのは、歯のことをギャーギャー言ってくれたことよ」と。元夫は、嘔吐反射(おうとはんしゃ)が酷くて、歯ブラシを奥歯まで入れることが出来なかったのだ。洗面所で涙を浮かべて、「ゲゲー」とか言いながら、歯を磨く夫の後ろで、私は、「それでも、歯を磨け。苦しくてもとにかく磨いておけ。歯が失くなるぞ。歯が失くなったら入れ歯をいれなきゃならないけど、あなたは、嘔吐反射なんだから、入れ歯なんて入れられるはずがない。とにかく磨け、磨けるときに磨いておけ」としつこく言った。

あれは、夫婦仲の悪化に影響を与えたかもしれないが、お口の中のケアに無頓着だった元夫は、今でも、3ヶ月に一回、歯医者に行き、スケーリングしてもらい、歯垢を除去していると言う。嘔吐反射も自然に治ってしまったらしい。

別れたとはいえ、私はあの男が誤嚥性肺炎で死ぬ姿は絶対に見たくなかったのだ。

関連書籍

今村三菜『お嬢さんはつらいよ!』

のほほんと成長してきたお嬢さんを奈落の底に突き落とした「ブス」の一言。上京し、ブスを克服した後も、地震かと思うほどの勢いで貧乏揺すりをする上司、知らぬ間に胸毛を生やす弟、整形手術を勧める母などなど、妙な人々の勝手気ままな言動に翻弄される毎日。変で愛しい人たちに囲まれ、涙と笑いの仁義なきお嬢さんのタタカイは今日も続く!

今村三菜『結婚はつらいよ!』

仏文学者・平野威馬雄を祖父に、料理愛好家・平野レミを伯母に持つ著者の波瀾万丈な日常を綴った赤裸々エッセイ。 ひと組の布団で腕枕をして眠る元舅・姑、こじらせ女子だった友人が成し遂げた“やっちゃった婚”、連れ合いをなくし短歌を詠みまくる祖母、夫婦ゲンカの果て過呼吸を起こす母、イボ痔の写真を撮ってと懇願する夫……。「ウンコをする男の人とは絶対に結婚できない」と悩み、「真っ白でバラの香りがする人とならできるかも」と真剣に考えていた思春期から20年余り、夫のお尻に素手で坐薬を入れられるまでに成長した“元・お嬢さん”の、結婚生活悲喜こもごも。

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さすらいの自由が丘

激しい離婚劇を繰り広げた著者(現在、休戦中)がひとりで戻ってきた自由が丘。田舎者を魅了してやまない町・自由が丘。「衾(ふすま)駅」と内定していた駅名が直前で「自由ヶ丘」となったこの町は、おひとりさまにも優しいロハス空間なのか?自由が丘に“憑かれた”女の徒然日記――。

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今村三菜 エッセイスト

1966年静岡市生まれ。エッセイスト。仏文学者・詩人でもある祖父・平野威馬雄を筆頭に、平野レミ、和田誠など芸術方面にたずさわる親戚多数。著書に『お嬢さんはつらいよ!』『結婚はつらいよ!』(ともに幻冬舎)がある。

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