
今年は、コロナコロナで、「手洗い、マスク、うがい、消毒、手洗い、マスク、うがい、消毒」とやっていたら、1年間が終わってしまった感じがする。
しかし、よく思い返してみたら、私は、今年、このコロナ禍で、「ちゃんと離婚」をしたのであった。「ちゃんと離婚」というのは、どういうことであるかというと、夫のS原くんと待ち合わせをし、ちゃんと2人で離婚届を出しに役所に行ってきたのだ。
別居生活約5年。夫婦としての生活が破綻して、約5年。S原くんは、私の気持ちが静かになるまで、よく待ってくれた。私は、夫を追い出してから、こんなに時間がたっているとは思わなかったが、自分の顔を鏡でよく見てみると、眉間にシワができ、目の下がたるんで、はっきりした老化が顔にも現れているので、確かに5年はたっているのだろう。
私は、自分たちらしく、離婚したかった。世田谷区の等々力総合支所というところに、婚姻届を出したので、またそこに、婚姻状態をお返しに行く如く、等々力の役所に離婚届を2人で出しに行きたかった。
私の頭の中には、いつも、尾崎紀世彦の「また逢う日まで」が流れていた。♪2人でドアをし~め~て~ 2人で名前け~し~て~♪ これが、離婚の王道、これこそ、別れの正しい道筋と、私はいつも思っていた。
8月の終わりの、たぶん、この夏最後の一番暑かった日、私は、自由が丘のみずほ銀行でS原くんと、お昼に待ち合わせをした。5年ぶりに会った夫は、身体が引き締まり、痩せて若返っていて、後ろ姿を見ると健康的な大学生だった頃のS原くんを思いだした。
駅前のロータリーを歩き、踏切を渡って、星乃珈琲に入って、向かい合って座った。久しぶりに夫の顔をまじまじと見ると、夜の銀座に通っていた頃のバブリーな偽物臭い感じが全部剥がれ落ちていて、とても平和な感じがした。
当時、とても違和感を感じたピカピカのTOM FORDのメガネもいい感じに古びて、夫の顔に自然な感じで収まっていた。ブルーのギンガムチェックの半袖シャツも涼し気だった。
私は、夫にオムライスを頼むように勧めたが、夫は、アイスコーヒーしかたのまなかった。私も朝から何も食べていなかったが、コーヒーすら飲む気がせず、一応、プリンだけたのんだ。注文が済んでから、2人で静かに、会わなかった5年間にあったことを話した。夫のお父さんの話し、私ととても仲良くしてくれた夫の叔母さんが亡くなった話しを聞いたり、私は、自分のスマホの中の写真を見せ、両親が相次いで、去年、手術をし、老いてきた話しをした。
次に私の4人の姪たちの写真を見せたら、夫は1人ずつじっくりと見ながら「なに、これ。全員、大人じゃないの」と言って、大変驚いていた。一番小さい姪(弟の次女)は、高3になっていて、今年は受験生だ。まだこの姪4が幼稚園にも行ってない頃、親戚みんなで、オーストラリアに行った。その時、ホテルのプールに入って、みんなで話していたら、夫の隣りで、ピンクの水着を着て、ピンクの浮き輪で水にプカプカ浮いていた姪4が忽然といなくなり、浮き輪だけになっていたという。夫が足元を見ると姪4がプールの底に沈んでおり、慌てて抱き上げると、姪4は、「うわわーん」と激しく泣いた。夫は姪4の命の恩人だ。そのことに改めてお礼を言うと、夫は、あの時のことは、本当に責任を感じている、一番近くにいたのに。自分には子供がいなかったから、あの子たち4人に、親のような気持ちを味合わせてもらって本当に楽しかったと、目を真っ赤にして言ってくれ、そんな風に思っていてくれたのかと、私も涙が溢れそうになった。
私はこの日の離婚劇が穏便に一発で終わるように、着々と準備を進めてきた。まず、星乃珈琲で会って話し、次にソフトバンクに行き、携帯の契約者を夫から私に代え、それから、東横線に乗って中目黒まで行った。私たちの本籍が目黒区になっていたため、世田谷区の等々力の役所に離婚届を出すには、戸籍謄本か抄本が必要になるので、目黒区役所に出しに行ったのだ。
中目黒の駅で降りると、西日がカーッと顔に当たり、頭が一瞬クラッとした。ちょっとした段差につまづいた私に夫が振り向いたので、私は、夫に「腕、掴んでいい?」と聞いたら「いいよ」と言うので、私は夫の左腕を掴んだ。
夫と腕を組んで、離婚届を出しに行く格好になった。西日を浴びながら、「今日は離婚日和じゃなかったねえ。別れっていうのは、ブルブルするくらい寒くないとねえ」と私が言うと、夫は、「離婚に日和なんてないよ」と言った。会話が本当に大事なところからそれて、上滑りしているのがわかったが、私は黙っていることができなかったのだ。
目黒区役所の戸籍課にたどり着くと、2つ並んでいる椅子に腰掛けた。私は、離婚届を3通バッグから取り出した。どこで書き損じてもいいように、あらかじめ、3通もらっておいて、私の友達2人に証人のところにサインしてもらってあった。
戸籍係の女性が前に座ってくれて、彼女の説明の通り、本籍や住所を夫とかわるがわる記入し、最後に指定されたところに捺印した。夫は証券マンだけあって、グリグリグリーッと上手く捺印する。これを見るのも最後かと思った。私も使うのは最後になる「S原」の判子を出して、下手なりに丁寧に捺印した。私が持っていた「S原」の判子を見て、夫が「何それ、すごくいいのじゃない」というので、(「S原」という名字はすごく珍しくて、どうしても注文して作ってもらうしかない)「欲しい?」と聞いたら、「欲しい」というので、朱肉をよく拭き取って、ポンと渡した。
戸籍課の女性は、私たちが丁寧に仕上げた離婚届を持って、奥に入って行った。私たちは、後ろのベンチで、離婚届が受理されるのを待った。夫が懐かしい大声で言った。「そういえば、アンタ、ほらほら、あのティッシュ」と言う。「鼻セレブよ、鼻セレブ。あれ、すごーくいいじゃない。アンタがあれ買おうとしたとき、すごく怒ったけど、今、ここでお詫びします」と言う。
夫は、いっぱいお金を持っていたが、消耗品には酷くケチだった。当時、鼻炎だった私は、鼻の周りが荒れないように、鼻セレブを買おうとしたら、夫が、「ティッシュとかトイレットペーパーなんて、一番安いのでいいんだ」と、私のことを、贅沢だと言ってカンカンに怒ったので、それから、一切、鼻セレブとか、フワッとするトイレットペーパーを買うことができなくなったのだ。
夫は、別居中、どこかで、鼻セレブで鼻をかんだら、すごく柔らかくてしっとりしていて、気持ちよく、何回も鼻をかんでしまったそうだ。「ごめんねー。鼻セレブ、すごくいいじゃない」と言うので、あきれて笑ってしまった。私は、「いまさら、何を言う。私はあれから、怒られたのが怖くて、いまだに一番安いティッシュしか買えないんだからね」と言って、夫の右腕をピシャリと叩いた。
離婚届は、無事に受理された。また腕を組んで、中目黒駅に向かった。もう解散かと思ったら、元夫が駅の前のスタバでお茶しようと言う。「お茶する」なんて無駄な時間だと言っていたあの人が最後の最後に「お茶しよう」って言うのかと、私はしみじみした。
蔦屋の中のソファに腰をかけると、元夫が「ミナくんは座ってなさい」と言って、アイスティーとシナモンロールを買ってきてくれた。自分は相変わらず、アイスコーヒーだけだ。
私は言いたいことは全部言わなきゃと、少し焦っていた。5年も経つと、嫌なことは全部記憶から薄れ、楽しかったことばかり思い出すこと。2人で旅行したことが本当に楽しく、どこの国でも、必ずS原くんがレンタカーを運転してくれたので、どこにでも行けたこと。いつも鬱々としていて、いつも不安気にしていて、申し訳なかったこと。お母さんを早くに亡くしたS原くんに家族を作ってあげられなかったこと。喋りながら、涙が溢れる。
S原くんも、僕も今はいいことばかり思い出す。ベニスでユーロスターを降りたとき、スーツケースを一つ列車の中に置き忘れて、慌てて取りに戻ったことをよく思いだすよと言っていた。
そして、意外なことを言った。S原くんは、去年、差し歯にしていた前歯が取れたので、友達の紹介で歯医者に行ったら、ミナくんのうちみたいな、3代でやっている歯医者で、ヒロシおじいさん(私の祖父、元歯科医師、享年97)より、もっとおじいさんぽい歯医者さんが出てきて、自分の元の歯を抜かれてしまい、部分入れ歯にされてしまい、しかもそれが、喋ると落ちてきてしまうこと。悩んだ挙句、よーくん(私の弟、歯科医師)の電話番号を思い出してかけたら、後から電話をかけ直してきてくれたので、前歯のことを相談したら、別の歯医者さんに行ってブリッジにしてもらうようアドバイスしてもらったこと。それで、こんなキレイな歯になりましたと、唇をめくって、前歯を見せてくれた。
その時に、私の弟が、付け加えるように、「うちでは、総じてS原くんのことは、誰も悪く言ってないから」と言ったそうだ。その「総じて」の一言が入っていたことに、弟の頭の良さを感じ、「そりゃ、総じてだろうなあ」とその一言に込められた実家みんなの残念な想いを、S原くんは、受けとったようだった。つまり、姉を大変、中途半端な年齢で放り出してくれたと、弟は言いたかったのだろう。私は、ぷっと、笑ってしまった。弟は私ほど、頭が単純ではない。
結局、シナモンロールも喉を通らなかった。S原くんも何も食べず半日が過ぎた。中目黒の改札で、別れ際に、「私、なるべく近い未来にシベリア鉄道に乗って、途中下車しながらモスクワまで行ってみたいんだけど、一緒に行く?」と聞いたら、間髪を容れず、「行く」とS原くんは答えた。
きっと、私たちは、一つ屋根の下は無理だが、家とかHomeとか家族とかいう囲いのない、もっと風通しの良い場所に行けば、喧嘩せずに、上手くコミュニケーションがとれるのだろう。旅行中も時々、解散、集合して、楽しくやってきたように。
S原くんは、逆方向の電車に乗るのに、私が乗る自由が丘方面の電車のホームまでついてきてくれた。電車のドアが閉まった。電車が動いた。私は、ホームに立つ元夫を見ながら、決して不安な顔はすまいと思ったが、それは、長い時間、一緒に過ごした夫だった人だ。マスクをとったS原くんの顔を見ていると、口が、「ダイジョウブ、ダイジョウブ」と動いていた。私は、涙がマスクに染みてくるのがわかった。
この日がずっと怖かった。自分の気持ちが大きく揺れるのが、本当に怖かった。でも、私の悲しい気持ちも、寂しい気持ちも、愛はあるけど、どうしても上手くできない口惜しい気持ちも、全部、この人はもう知っているなと思った。
葉っぱが風に吹かれて、吹かれて、ハラハラ舞って、やっと地面に舞い落ちた日に、私は、ちゃんと離婚したのだ。
さすらいの自由が丘

激しい離婚劇を繰り広げた著者(現在、休戦中)がひとりで戻ってきた自由が丘。田舎者を魅了してやまない町・自由が丘。「衾(ふすま)駅」と内定していた駅名が直前で「自由ヶ丘」となったこの町は、おひとりさまにも優しいロハス空間なのか?自由が丘に“憑かれた”女の徒然日記――。