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おとなの手習い

2020.10.14 更新 ツイート

かつてこれほど普遍的に、人類が同じ試練を体験したことはなかった 香山リカ

(写真:iStock.com/BrianAJackson)

気持ちを明るくするには、どうすればいいか。最近、そんなことばかり考えている。診察室で会う患者さんの気持ちも、そして自分の気持ちもだ。

 

急に気温が下がってきて、「今年も4分の3が終わったんだ」と実感する。誰もがそうだったと思うが、振り返ればなにかとつらいことの多い1年だった。これまでも受験に失敗したり親が亡くなったりつらい年はいくらでもあったが、これまでとはそのつらさの重みがまったく違う。

「精神科医って人の悩みをきく仕事だから、もともと重くつらい気持ちになるんじゃないの」と思う人もいるだろうが、その答えは「そういう面もあるが、そうとも言い切れない」だ。もちろん、「もう生きているのもしんどい」といった話を聴いていて胸が苦しくなることもある。しかし、そこが診察室である限り、私は「診療」をしている。

目の前の人が涙ながらに話すことに聴き入りながらも、頭の半分では冷静に客観的に状況を見つめ、「診断は何になるだろう。入院は必要か否か。通院治療の場合、処方の組み立ては……」と全速力で経験や知識を参照しながら考えている。そして、相手の話がひととおり終わったときには、「わかりました。あなたの場合……」と診断名や治療方針を伝えられるように準備するのだ。

その作業があるため、友人の打ち明け話にどっぷりつかったときのようなつらさ、しんどさは感じずにすむ。「距離を置く」というと冷酷に聞こえるが、精神科医療を行うためには、どうしても必要なことなのだ。

ところが、今年は少し違う。診察室で「コロナで仕事がなくなって目の前が真っ暗です」「芸能人の方々も命を絶つ中でどうして私が生きているのかな、と考えてしまって。やっぱりコロナの影響もあるのかな」といった話を聞いているうちに、うまく「距離を置く」ことができなくなってくるのだ。

「そうですよね……」とだけ答えて、こちらもしばし思考停止状態に陥り、ときには「私の場合、どうなんだろう?」と自分に考えを向けていることもある。精神科医としては失格の態度だ。

誰もが知っていることだが、日本でキリスト教の信仰を持っている人の多くは、「カトリック」か「プロテスタント」という宗派に分かれる。そのカトリックのふたりの神父(一部では“カリスマ神父”と呼ばれる人気者らしい)の対談をまとめた『希望する力 コロナ時代を生きるあなたへ』(キリスト新聞社)を読んでいたら、話者のひとり晴佐久昌英神父がこう語っていた。

今回のウイルスって、ある意味全世界共通じゃないですか。これほど普遍的に人類が同じ試練を経験したことなんて、なかったんじゃないかな。

同じようなことは多くの人が語っていると思うが、私はこの「普遍」という言葉にハッとした。ちょっと理屈っぽいことを言うと、この「普遍」という言葉をはじめて使ったのはアリストテレスとのことだが、「普遍とは何か」についてはいまだに哲学の世界などでさまざまな議論があるようだ。

私も以前、ほんの短い期間、この「普遍」について考えていたことがあった。そのときフランスの哲学者アラン・バディウの『聖パウロ : 普遍主義の基礎』( 長原豊 、松本潤一郎訳、河出書房新社)という本を文字通り斜め読みしたことがあったのだが、その中のこんな一節が印象に残っていた。

天才的な反哲学者パウロは、普遍的なことの条件は、起源においても、到達点においても、概念的ではありえない、と哲学者に警告する。

「普遍」とはなんとなく抽象的な概念のような気がしていたのだが、はじめはキリスト教徒を弾圧し、後に回心してからは自分の足を使って生涯、伝道の旅を続けたパウロは、「普遍は徹頭徹尾、概念的ではない」と言っていたというのだ。

それを読んだときはよく意味がわからなかったが、今年のコロナ禍で「患者さんとともに自分も気が重くなる」という体験をはじめてして、カトリック神父の「コロナは人類が普遍的に経験している試練」という言葉を読み、「ああ、これが普遍なのか」とわかった気がしたのだ。そう考えればたしかに、文字だけで語れるようなものはなんであれ普遍的ではなく、地上の誰もが「ほら、あれだよあれ」と体験を共有できて、はじめて「普遍」ということになるのかもしれない。

しかし、それに気づいたからといって、もちろんすぐに気持ちが晴れ晴れするわけではない。先の神父の対談でも、また世界の識者たちの談話でも、「今こそ国の垣根を取り払って、世界がひとつになってこの災厄を乗り越えるときだ」と言われているが、そんな兆しは今のところない。

9月23日、国連総会で流されたリモート演説で、アメリカのトランプ大統領は、中国の新型コロナウイルス対応を長々と批判したあと、「アメリカ・ファースト。アメリカはアメリカのことに最優先して対応する。みなさんの国もそれぞれやってください」と語った。「世界がひとつになって」というのと正反対のこの演説に、私のこころがさらに寒々としたのは言うまでもない。

大学では相変わらずオンライン授業を続けているが、5月あたりは「ラクで助かる」と言いながら「来年あたりは元に戻っているはず」と楽観的だった学生たちも、さすがに「これからもずっとこうなのでは」と不安を口にするようになってきた。

とくに3年生はこれから始まる就職活動の見通しが立たない。私の学科の学生は、エンタメ業界や旅行業界、マスコミを志望している人も多いのだが、その中にはすでに2021年は新卒採用の中止を発表しているところもあり、その先もどうなるかわからない。「もう東京にいても仕方ない」と借りていたアパートの部屋を引き払い、地元の実家に戻ってしまった学生もいる。

診察室では患者さんに、「もう今年はまるまるなかったことにしましょうよ」と話すことがある。「オリンピックだってもし来年、開催されたらTOKYO2020のままだそうですよ。来年が2020年なんだ、くらいの気持ちでいいんじゃないですか」

患者さんの中には、「それはいいかもしれませんね」とうなずいてくれる人もいるが、自分で「でも、そうもいかないか」とツッコミを入れたくなる。もちろん、時間が凍結して来年また動き出す、というならよいのだが、確実に時間は流れており、身体の老化はその分、進んでいるからだ。美容室に行って、「もう少し白髪が増えてきたら、根本の部分染めじゃなくて、こういう方法で染めましょう」などと“予告”されると、「ああ、その日が近づいてるってことなんだな」と、この間も粛々と時間は流れていることを感じるのだ。

診察室に通う患者さんの中には、「スポーツジムが気晴らし」と語っていた人がけっこういて、「最近、ジムってすっかり人びとの生活に定着しているんだな」と思っていたが、今年はそれも大きく変わった。多くのスポーツジムは再開しているが、人数制限のために予約制だったり運動中もマスク着用が義務づけられたり、いろいろ制限があるようだ。

とくにうつ病などからのリハビリ目的でジムを利用していた人にとっては、「いちいち予約をして、しかも1回の滞在時間の制限まで課せられるのはきゅうくつ」「マスクをしながらランニングマシーンをやっていると胸が苦しくなる」とかえってジムがストレスを感じる場になっている。しかし、そういう具合でリハビリがなかなか進まなくても、会社が定められている休職期間の残りは、日々少なくなっていく。公立図書館も同じような利用で、メンタル疾患に対するリハビリには使いにくくなってしまった。

こんな悶々とした日々を送っているのは、私だけなのだろうか。それは違うようだ。

先日、久しぶりにテレビの教養バラエティ番組のスタジオ収録があった。コロナの影響でしばらく中断期間があったのだが、また再開されたのだそうだ。同席するゲストは、誰もが知っているような大物の男性俳優、女性俳優だ。収録の合間、とても気さくなふたりと雑談をする機会があり、「コロナの影響はいかがですか」と尋ねると、ふたりは口をそろえて「いやもう、たいへんです」と言った。

舞台や映画の撮影はすべて中止、テレビの地方のロケもなくなり、ひとりはやや高齢なのでテレビ局からハイリスク者と見なされて“出入り禁止”状態、出演はほとんどリモートに切り替わったそうだ。

予想以上の深刻な影響に驚きながら聞いていると、ひとりひとりがこうつぶやいた。
「まわりの人たちは、もうハラをくくって時間ができたと考えて資料の整理や家の片づけをすればいいじゃない、とおっしゃってくれるんです。でも、そういう気にもなれないんですよ。ただ時間がすぎるだけで」

ああ、こんな人たちでもそうなんだ、と思った。その人たちはおそらくお金の心配はないはずだ。それでも、「これまでのように仕事ができない。いつ再開されるかわからない」という中で次第に活気も意欲も低下していき、「気持ちを切り替えて、“おうち時間”を楽しもう」などとはとても思えなくなるのだろう。

その番組の収録は、ゲストどうしの間にアクリル板の仕切りが立てられて行われた。いつも楽屋に用意されていたチョコやクッキーなどのおやつもなく、スタッフは「収録中、みなさんに近づくのをなるべく避けるため、フリップや資料は座席の横にまとめて置いておきますので、すべてご自分で探して使ってください」と言って、いくぶんよそよしい雰囲気が漂っていた。それでも終了した後、大物俳優たちは何度も「いやあ、楽しかったな」「やっぱりいいですね、こういうの」と笑顔で言っていた。

私ももちろん同じ気持ちだったが、一方で「これからどうなるんだろう」と不安にもなった。その番組には数カ月に1度、出演の機会があるのだが、次回もまた「楽屋のおやつなし、スタジオにはアクリル板あり」なのだろうか。いや、それともまたコロナの患者数が増えて、再び収録は休止されるかもしれない。いやいや、テレビ業界全体が持ちこたえられなくなり、番組じたいが継続できないという事態だってないとは言えないではないか……。

もちろん、つかの間の現実逃避で気持ちを明るくする方法はいくらでもある。好きなドラマを見たり音楽を聴いたり、おいしいものを食べるのだって十分、気分転換になる。しかし、何をしても「これからどうなる」と思うと、本当の意味で心の底から明るくなることはできない。

今年の12月31日でコロナに関するすべてが終わり、1月1日から新しい日々が始まる、というならまだがまんもできるが、そんな保障はどこにもないのだ。そして、どこかに逃げることもできない。どこに行ってもコロナは私たちにつきまとってくる。

これが「普遍」ってやつか。私ははじめて身をもって知った。とはいえ、診察室で患者さんといっしょに暗くなるのはプロとして失格だ。「とにかくあなた自身のコンディションを整えておくこと。どんな状況が来ようとも、それがまず基本です」と話し、自分にも「そうだ」と言い聞かせる。そして、やや手間はかかるが、人数制限をして行われるスポーツジムのズンバのクラスにだけはなるべく休まないようにして通い、体力を維持しようとしているのである。

あと週に1度の中国語のレッスン、そして総合診療科での身体診察のトレーニングは続けている。「コロナ前からやっていたことを続けることで自分を保っている」というのが正直なところかもしれない。

ほかにもし、「こうすれば気分がちょっとは明るくなりそう」という方法が見つかったら、またぜひここに書いてみたいと思っている。なんだか情けない精神科医の話で、すみません。

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香山リカ『ノンママという生き方 子のない女はダメですか?』

ときどき悔やむ。ときどき寂しい。 でも大丈夫。これが私の選んだ道。私の幸せのかたち。 さまざまな理由で、生涯子どもを持たない・持てない女性が全女性の3割とも言われています。 「女は子どもを産み育てて一人前」「女の本当の幸せは子どもを持つこと」という伝統的価値観はまだまだ強く、さらに最近は、少子化対策が国をあげての課題となり、子育ても仕事も頑張る「ワーキングマザー」が礼賛されます。 そんななか、子どもを持たない人生を選んだ「ノンママ」は、何を思い、どんなふうに生きているのでしょうか? それぞれの事情、悩みと葛藤、後輩ワーキングマザーとの軋轢、介護と自分の老後の不安等々。「ノンママ」のリアルな胸のうちを、自身もノンママである精神科医の香山リカ氏が、ときに切なく、ときに明るく描きます。

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60歳という人生の節目を前に、「これからの人生、どうする?」という問いに直面した香山リカさん。そこで選んだのは、「このまま穏やかな人生を」でなく、「まだまだ、新しいことができる!」という生き方。香山さんの新たなチャレンジ、楽しき悪戦苦闘の日々を綴ります。

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香山リカ

1960年、札幌市生まれ。東京医科大学卒業。精神科医。立教大学現代心理学部映像身体学科教授。豊富な臨床経験を活かし、現代人の心の問題のほか、政治・社会批評、サブカルチャー批評など幅広いジャンルで活躍する。『ノンママという生き方』(幻冬舎)、『スピリチュアルにハマる人、ハマらない人』『イヌネコにしか心を開けない人たち』『しがみつかない生き方』『世の中の意見が〈私〉と違うとき読む本』『弱者はもう救われないのか』(いずれも幻冬舎新書)など著書多数。

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