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住所不定 「映画」と「踊り」を探して

2020.05.18 更新 ツイート

新連載

ボクは家を引き払い、住所のない映画監督・俳優になった太田信吾

ある男性との出会い

「実は去年、事業で儲かった。その金で君に映画を撮らせたい」

知り合ったばかりの映画制作会社のプロデューサーMさんから電話をいただいたのは2019年も末のこと。その方のことは記憶にあった。2019年10月から全国で劇場公開をされた監督作の映画『解放区』を、初夏に都内で開催されたマスコミ試写で観て、上映後のロビーで名刺を手渡してくださった方だ。

「いやあ、映画、最高だったんで。これからよろしく」

 

マスコミ試写にしろ関係者試写にしろ、上映の場は配給やプロデューサーだけでなく、監督にとっても、勝負の瞬間だ。そこでの評判でその後の映画の展開、ひいては自分たちの人生の身の振り方が決まる。ボクは試写会場のロビーで内心でガッツポーズをしながら、自分たちが世に出した作品がポジティブな作用を生み出すことができた奇跡を喜んでいた。表情や行動は言葉よりも時に正直だ。試写室の外へ続く階段を登るその人の確かなで軽やかな足取りを見ながら、この人とはまた会うだろうな、と思っていた。

気付くと住所不定の映画監督に

ボクが大学の卒業制作で初めて映画を作ったのは2010年。その処女作「卒業」で映画祭で賞をもらい、「もう少し続けてみようかな」と考え、当面、就職をしないことを決意した。その後、友人の自殺を描いた長編ドキュメンタリー映画「わたしたちに許された特別な時間の終わり」が2013年に完成するとその映画も口コミで広がり、国内外で上映していただく機会に恵まれた。アジア、ヨーロッパと様々な国に呼んでもらい、気付くと映画づくりを通じて国籍を超えた友人たちが出来ていた。

20代も後半、旅をする中で広がってゆく価値観の中で、「もう少し映画を続けてみようかな」というそれまでの消極的姿勢が、「死ぬまでこの仕事を続けたい」という積極的な想いに変わっていた。ちっぽけな自分の想像や価値観が、人や土地、動物や環境との出会いによって更新されていくのに気づいたのだ。今から五年ほど前。20代の後半だったボクは横浜の山手という町に借りていた部屋を解約した。旅の中に生きようと思ったのだ。

その決断は自殺をした親友へのアンチテーゼでもある。なぜなら自殺という選択のもとには「自分は死に値する人間である」という価値観の断定が隠れていると思うから。だが本当にそうだろうか? 彼は2010年の12月に亡くなったが、あと数ヶ月、生きていたら。3.11の震災を受けて、感受性豊かだった彼は音楽で世界と向き合ったのではないかと想像できる。向き合って欲しかった。

しかし最終的に彼が自殺という価値観の断定に至ってしまった。なぜか? ボクは他者との対話や出会いが極端に減った居住空間や、人間関係が起因すると考えた。同じ場所に暮らし、同じ人と過ごすなかで、価値観が凝り固まってゆく危険を友人の自殺を経て身を以て感じた。

それからというもの、帰る家のないボクはスーツケースとキャメラバック、軽自動車とともに日本・海外の各地を転々とする暮らしを続け、そのなかで創作に励んできた。ボクの父と母は長野と埼玉に分かれて暮らしており、東京で打ち合わせなどがあり戻らないといけない時など、必要があればそこにお世話になろうと決めた。

親のスネをかじるのか? という批判も聞こえてきそうだが、ボクは創作に時間と金を全力投下するスタイルを作ることが最終的には親孝行にも繋がると考えている。なぜならこの道で生き抜いていくと決めたから。旅を続け、エキサイティングな瞬間と出会い続ける限り、創作意欲は枯渇しないと信じている。その意欲が、企画に、作品に、収入に、繋がってきた。持続的に活動を続けるために、家賃や物件に縛られるのは不自由だ。そうしてボクは仕事の収入は旅と創作を続けるための費用と、いつか家庭を持つための貯金に投下してきた。ボクは住所不定の映画監督、俳優だ。

旅によって育まれた映画「解放区」

そんな旅の過程で育まれた劇映画のタイトルが「解放区」。作品を熱烈に応援してくれる配給や放送局の方との出会いがあり、2019年の10月 本作はテアトル新宿を皮切りに全国ロードショーという日の目を見るチャンスを得ることができた。2020年7月8日にはソフト発売も決定している。この作品は日本のドヤ街としても知られる大阪市西成区釜ヶ崎を舞台にした映画だ。東京で仕事をしていた20代の若者が職場での諍いがきっかけで東京での生活基盤を失い西成のドヤ街へと漂着する。やがてその男がその街に蔓延る覚醒剤に溺れてゆくストーリー。

この映画の中で、健常者で仕事も彼女もいるなんら日常に不自由はなさそうに思えていた主人公がふとしたきっかけで仕事を失い、統合失調症を患う知人の男性に金をせびるシーンがある。上映をすると、高い割合で客席から笑いが沸き起こるシーンだ。「なぜ健常者のお前が、病人に金を借りるんだ?」というツッコミが観客の中にはあるのだと思う。

この構造はボクにとっての狙いだった。正常と異常、病人と健常者という社会が決めたフレームを反転させたいという強い思い。それは劇場デビュー作の「わたしたちに許された特別な時間の終わり」というドキュメンタリー映画で、親友で才能に恵まれながらも27歳で心の病を患い自殺してしまった音楽家・増田壮太氏へのレクイエムでもある。鬱という病を「病」だと認識さえしなければ…ネガをポジにボクが反転させることができていれば…彼はまだどこかで音楽を奏で人の心を掴んでいたに違いない。そんな後悔や罪悪感がボクの中にある価値観を育んでいった。

その価値観とは?
ボクの映画は公園でありたい、ということだ。

ここでいう公園とはシャブ中もアル中も障害者も記号性から解き放たれ共存できる場所。そこでは常に価値観が揺らぐ。映画体験とは忙しない日常から離れ、暗闇のなかでそうした豊かな公園を垣間見ることで自明とされている価値観や自身の生に対し新たな視座を獲得する時間である。実際に映画「解放区」ではリアルな覚醒剤の売人、アルコール中毒者、統合失調症の男性などに出演いただき、ネガをポジに反転させるシーンを積み重ね製作していった。

飛田新地をテーマに映画を撮れないか

ボクは都心にあるMさんが所属する映画会社のオフィスを訪ねた。2019年も年の瀬のこと。Mさんからは特にこれ、という企画の提案が提示された訳ではなく、何か漠然とボクの次回作を一緒に手掛けたいという思いを持ってくださっていることがわかった。同時に、Mさんも大阪出身で西成に家族がいたりと縁があり、そんなこともあって上記の映画「解放区」を余計に買ってくれていることがわかった。

幾つか、テーブルの上にはMさんが映画化をどうかと提案してくれた書籍が並んでいた。ボクはそれらには目を向けず、「飛田新地のドキュメンタリー映画を撮りませんか?」とMさんに尋ねた。Mさんは関西弁に坊主頭という強面な風貌ながら、彫りの深い優しい顔立ちをした親しみやすい兄貴という感じの男性。「飛田の映画か。ええな」Mさんは答えながら腕を組んだ。映画業界の中心で長年、プロデューサーとして作品を送り出してきた経験もある、多分頭の中で制作費など算盤を弾いてるのだろう。

飛田新地とは西成区に残る<日本最後の遊郭>として知られる場所だ。動物園前駅からほど近い場所に料亭という体裁で営業されている。料金は多くの店舗で基本20分16000円に設定されている。あくまで客と女性たちの「自由恋愛」という体裁で、150軒以上立ち並ぶ料亭の二階では性行為も含む男女の営みが100年以上に渡って、連日連夜、繰り広げられてきた。

映画「解放区」でも、ボクはこの飛田新地で数シーンを撮影させていただいた。主人公の男がこの遊郭で働く女性と一夜の情事を共にするという場面だ。映画の公開を経て、ボクの心にはこの街を残しておきたいという二つの大きな思いがあった。

なぜ飛田にこだわるのか

まず、新型コロナウイルスの影響により、やがてこの街がなくなってしまうのではないか、という漠然とした不安がある。コロナ感染を防ぐため、現在ボクたちが政府からも避けることが促されている「三密(密接・密集・密閉)」のすべてに飛田新地の料亭は当てはまる。飛田新地は4月3日から営業自粛となっているが、これから将来、ワクチンが開発され、営業が再開されたとしても飛田新地に客足が戻らない可能性や現在は暗黙の了解のもとに経営が続けられている飛田新地を行政や警察が今後、閉鎖に追い込む可能性も無視はできない。個人的にも、映画監督としても、これまでお世話になってきたこの飛田新地の街の文化としての灯火を絶やしたくはない。

さらにその思いに拍車を掛ける出会いもあった。映画「解放区」の劇場公開の際に出会った、二人の方々だ。

一人は、心の病を患い生活保護を受給して暮らしていたが、自立をするために飛田新地で働いていた経験があるという女性。もう一人の方は妻に逃げられ、財産も失い人生に絶望して自殺を心に決めながら、最後の贅沢だと飛び込んだ飛田新地で出会った女性に救われ再起を果たすことが出来たという男性の方。いずれの方も、映画が大阪府内のテアトル梅田、シネマート心斎橋、第七藝術劇場といった映画館で上映された際に、上映後、声をかけてくださったお客さんたちだ。飛田新地への想いを聞きながら、ボクはあの街が遊郭としての機能だけではなく、働く女性たちにとっても、そこでサービスを受ける男性にとっても、セーフティーネットとして機能している側面を思い知るに至った。

飛田新地での”オフィシャル”な撮影手形を求めて

2020年の2月と3月に一度ずつ、ボクとMさんは飛田新地を訪ねた。飛田新地の料理組合からドキュメンタリー映画制作のための許諾を得るためだった。過去に映画「解放区」を撮影する際には、飛田新地を取り仕切る料理組合に何度も通い詰めて直談判を続けて、最終的に許諾をもらえたこともあったので、熱い思いがあれば伝わるのではないかという漠然とした期待があった。ところが、結論から言うとこの期待は外れてしまった。

ボクが映画「解放区」をこの街で撮影してから七年。理解がある組合長は世代交代をしてしまい、新たに出迎えてくださった料理組合の皆さんはなかなか厳しい反応だった。組合での打ち合わせを終えたボクに、Mさんは財布から二万円札を取り出して渡してくれた。「まあ、これで上ってきなよ」ボクはその二万円を握りしめ、撮影をさせていただく予定だった料亭に上がった。ボクの対応してくださったのは現役の看護師だという20代の女性だった。看護師の給料も十分にあるが、将来に備えて貯金をするため、副業として飛田新地で働いて三年になるという。貯金を貯めて、セブ島に遊びに行きたいという夢を語ってくれた。ボクは飛田の料亭の二階で暗がりの天井を眺めながら、このまま撤退するわけにはいかないと新たな決意を固め始めていた。

登山ルートとして映画を考える

映画が豊かな物語を孕んだ山だとすると、その登山ルートはひとつでなくていい。当初、ボクたちはMさんと長年親交があった飛田新地の料理組合の会員の方を主人公にしたドキュメンタリーを考えていた。長年、飛田新地に暮らしながら、ヤクザを排除し、行政とも連携をしながらクリーンな「飛田新地」の町づくりに貢献していたその方が今、どう飛田新地という町と向き合い時代の変わり目を生きるのか? とても興味があった。ご本人もご家族も理解を示してくださってはいたが、組合の許諾が取れなかった以上、ボクたちはそのルートを進むわけにはいかなくなった。

別のルートはないか? そう考えたときに思い出したのが、前述した映画を通じて出会った二人の方々だ。ボクはすぐに連絡を取った。女性の方は理解を示してくれたものの、出演となると難しいという結論であった。男性の方は、強く企画に賛同してくださり「太田さんについて行きます」と熱いメッセージを返してくださった。ルートAの道は絶たれたが、ボクたちにはルートBから飛田新地という山に登れるチャンスが残されている。いつになるかはわからない。だけれども飛田新地への思いが詰まったこのフィルムに、みなさんをご招待できる日が来ることを祈りながら、焦らず、映画という公園に、種を撒いて整備して行きたい。

*   *   *

次回は、6月3日公開予定です。

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住所不定 「映画」と「踊り」を探して

リアルに進む映画制作の記録。踊りの記録。

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太田信吾 映画監督・演出家・劇作家・俳優

1985年生まれ。長野県出身。早稲田大学文学部哲学専修にて物語論を専攻。処女作のドキュメンタリー『卒業』がイメージフォーラムフェスティバル2010優秀賞・観客賞を受賞。『わたしたちに許された特別な時間の終わり』が世界12カ国で配給される。他に『解放区』(18年劇場公開)など。俳優として舞台・ドラマ・バラエティにも出演。2017年にはソウル市立美術館にて初のインスタレーション作品を発表するなど、ジャンルの垣根を超えて、創作活動を行っている。

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