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昭和45年11月25日 三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃

2020.10.16 更新 ツイート

#3

政治的な立場を異にする者ほど、三島の行動力に心を打たれる。野坂昭如もそのひとりだ。【再掲】 中川右介

今年は三島由紀夫没後50年。10/25(日)には注目のオンライン対談も開催します。

中川右介著『昭和45年11月25日 三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃』(幻冬舎新書)――日本全体が動揺し、今なお真相と意味が問われる三島事件。文壇、演劇・映画界、政界、マスコミ百数十人の当日の記録を丹念に拾い時系列で再構築、日本人の無意識なる変化をあぶり出した新しいノンフィクション。

第二章 真昼の衝撃

*   *   *

 ダイエー赤羽店
 この日のダイエー赤羽店の様子を、後にノンフィクション作家の佐野眞一は、『カリスマ──中内㓛とダイエーの「戦後」』でこう綴る。

 《三島が市ヶ谷台のバルコニーの上から、「このままいったら『日本』はなくなってしまう。かわりに、からっぽで抜け目のないだけの経済大国が極東の一角に残るだけだ」と絶叫しているとき、三島が唾棄してやまなかった““商人国家””の大衆は、観念の自家中毒に陥って切腹した作家をあざ笑うように、格安のカラーテレビを何とかあてるべく、回転式抽選器をガラガラと回していたのである。》

 佐野は、この日、赤羽にいて、この光景を見ていたわけではない。二十数年後に調べて書いたのだ。

 佐野自身はこの年、二十三歳。早稲田大学第一文学部卒業後、「新宿大ガード近くの小さな出版社」(勁文〈けいぶん〉社のことと思われる)にいた。

 会社にいた佐野は、昼頃、外回りから帰って来た営業部員から事件を聞いた。カーラジオで臨時ニュースを流していたというのだ。あわてて、テレビをつけた。

 《まだその段階では市ヶ谷の自衛隊に乱入したという情報だけで、生死についてはわからなかった。ほどなく割腹自殺したというニュースがテレビで報じられたとき、私はいいしれぬ衝撃を受けた。》

 佐野は高校時代から三島を愛読していたのだ。

 この日の後、佐野は三島作品をほとんど読まなくなる。だが、

 《現在にいたる私の仕事の核に、私自身もわからないあの日の衝撃があることは確かである。》

 


 

 文化放送
 堤清二が出演した緊急座談会は一時間ほどで終わった。

 堤はスタジオを出た。玄関ホールにあるテレビには、三島がバルコニーから自衛隊員に向かって演説している姿が映っていた。それが生放送なのか、録画なのかは分からなかった。

「三島由紀夫が自害したようです」

 と誰かが叫んだ。堤は茫然自失のまま、文化放送を後にして、池袋の西武百貨店の事務所に向かった。

 

 市ヶ谷、自衛隊駐屯地
 佐々淳行(さっさあつゆき)が、市ヶ谷の自衛隊駐屯地に着いた時は、すべてが終わっていた。

「後の祭り」と佐々は後に書く。

 佐々は所轄署である牛込警察署の三沢由之署長の説明を受けながら、三島と森田の遺体に近づいていった。その時、足元の絨毯(じゅうたん)が「ジュクッ」と音をたてた。二人の遺体から流れ出た血液の血溜まりに足を踏み入れてしまったのだ。東部方面総監室の床には、真紅の絨毯が敷き詰められていたので、その赤と血の赤との区別がつかなかったのだ。

 佐々は《あの靴裏の不気味な感触は、四半世紀経った今でも忘れられない》と書いている。
 

 

 総理大臣官邸
 佐藤総理大臣は商工会連合会の大会での挨拶を終えると、総理大臣官邸に戻り、昼食をとった。その席で事件を知った。官房長官保利(ほり)茂と共に沈痛な空気のなかでの食事となった。

 佐藤は三島とは何度も会っていた。公邸に招いて食事をしたこともあった。それだけに、意外だった。

 佐藤の日記にはこうある。

 《丁度十一時半頃警視庁からの連絡で、市ヶ谷自衛隊総監本部に暴漢乱入、自衛官陸佐等負傷の報あり。一時間後には、この連中は楯の会長三島由紀夫その他ときいて驚くのみ。気が狂ったとしか考えられぬ。詳報をうけて愈々判らぬ事ばかり。三島は割腹、介錯人が首をはねる。立派な死に方だが、場所と方法は許されぬ。惜しい人だが、乱暴は何といっても許されぬ。》
 

 椎根和
 雑誌「an・an」の編集者椎根和(しいねやまと)は、昼過ぎに電話で起こされるまで自宅で寝ていた。それはいつものことだった。夕方から出社し、深夜まで仕事をするというのが、椎根の出勤パターンだった。特に十一月下旬は十二月に発売される新年号の入稿のため、雑誌の編集者は一年で最も忙しい。椎根も前日の夜遅くまで、正確にはこの日の午前四時まで仕事をし、その後に新宿西口で飲み、自宅に着いて寝たのは午前九時だった。

 椎根はこの年、二十八歳になる。早稲田大学を卒業した後、婦人生活社に入り、「婦人生活」誌で皇室記事の担当をしていたが、一九六七年に平凡出版(現・マガジンハウス)に転職し、「平凡パンチ」の編集部に入った。当時の平凡出版は「月刊平凡」「週刊平凡」がともに百万部を誇り、一九六四年に青年向きに創刊された「平凡パンチ」も百万部を突破し、社員は年四回のボーナスをもらっていた。

 椎根は「平凡パンチ」の編集者だった一九六八年四月に初めて三島にコンタクトをとり、以後、何度も取材をしたり、エッセイを書いてもらったりしていたのだ。そして、創刊される「an・an」に異動になった。そんな関係があったためか、三島は「an・an」創刊にあたって、メッセージを寄せている。

 電話はフリーライターの三宅菊子からだった。三宅は女三代がもの書きという家系の女性だった。祖母が小説家で評論家でもあった三宅やす子、母が作家の三宅艶子(つやこ)だ。三宅菊子はフリーライターとして、平凡出版の雑誌、「週刊平凡」などに書いていた。「an・an」には創刊号から関わっている。

 三宅は「テレビ見て、三島が自衛隊で……」と椎根に言った。椎根はテレビをつけた。

 《バルコニーで演説している三島の姿が、くり返し放映されていた。テロップは、割腹……、死亡……、と報じていた。
 ぼくはテレビにむかって、「ほらみろ、三島の対談をやっとけば、アンアンは、バカ売れしたのに……。チャンスを逃がしたじゃないか……」と、木滑編集長に対する怒りをはきだし、すぐベッドにもぐりこんで、また寝た。》

 当時の「an・an」編集長は木滑良久(きなめりよしひさ)。伝説となっている名編集者だ。

 椎根は「an・an」新年号のための企画として、三島と、当時人気絶頂だった女優の藤純子(じゅんこ)(現・富司純子〈すみこ〉)との対談を企画した。

 だが、四十五歳の人気作家と二十四歳の人気女優の対談を木滑は却下した。「三島の人気のピークは過ぎた」「人気の過ぎた人を出すと、雑誌が古くさくなる」というのが、その理由だった。これが、九月のことである。芸能界に精通し、大衆の人気というものに対し独特のカンを持ち、数々の伝説をつくってきた木滑の言うことなので、椎根は従わざるをえなかった。

 こうした背景があっての、受話器に向かっての椎根の言葉だった。受話器の向こうにいるのは、木滑ではなく三宅なのだが、すぐに木滑にも伝わったのではないか。

 

 

 神田・神保町
 東京・神田神保町の古書店、山口書店の店主山口基(もとい)は、テレビでニュースを知った。

 山口は後に三島由紀夫の年譜や文献情報についての著書も出す三島研究家でもある。

 通っていたジムが近いことから、三島がよくこの店に立ち寄り、親交が始まった。

 《私は直ちに店を閉めて、市ヶ谷へ駆けつけようとした。しかし、それでどうすることができるのか。私が今、ほんとうにやらなければならないことは何であろうか。私は店頭のウインドーの中にあった氏の著書をすべて奥へ引っこめ、かわりに氏の遺影に菊花をそなえ、あわせてそのライフ・ワークの『豊饒の海』三冊を飾った。》

 全四巻となる『豊饒の海』だが、この日、最終章の原稿が新潮社に渡されたわけで、当然、まだ第四巻は本になっていない。だから、三巻までしかなかった。

 ニュースが流れてから、新刊書店はもちろん、古書店にも多くの客が三島の本を求めてやって来た。山口の店にも多くの客が訪れ、三島の本を求めた。だが、山口は、一切、売らなかった。「本を売るのが商売だろう」と怒る客もいた。「バカな奴だ」と言う同業者もいた。

 《しかし、私は誰に何といわれようとも三島氏の死を商売のタネにすることはできないのである。》

 山口の決意は固かった。

関連書籍

中川右介『昭和45年11月25日 三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃』

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昭和45年11月25日 三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃

一人の作家がクーデターに失敗し自決したにすぎないあの日、何故あれほど日本全体が動揺し、以後多くの人が事件を饒舌に語り記したか。そして今なお真相と意味が静かに問われている。文壇、演劇・映画界、政界、マスコミの百数十人の事件当日の記録を丹念に追い、時系列で再構築し、日本人の無意識なる変化を炙り出した新しいノンフィクション。

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中川右介

1960年生まれ。早稲田大学第二文学部卒業。出版社IPCの編集長として写真集を中心に美術書を編集、ソ連の出版社とも提携した。後、出版社アルファベータを設立し、代表取締役編集長に(2014年まで)。ドイツ、アメリカ等の出版社と提携し、音楽家や文学者の評伝や写真集を編集・出版。クラシック音楽、歌舞伎、映画、歌謡曲、マンガなどの分野で旺盛な執筆活動を続ける。おもな著書に『十一代目團十郎と六代目歌右衛門』『坂東玉三郎』『カラヤンとフルトヴェングラー』(以上、幻冬舎新書)、『手塚治虫とトキワ荘』(集英社)、『サブカル勃興史』(角川新書)、『1968年』(朝日新書)などがある。

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