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昭和45年11月25日 三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃

2017.11.24 更新

父が三島と親しいことを、俳優鶴田浩二の娘・愛弓はよく知っていた。しかしその日の鶴田は驚くほど冷静で、愛弓はそんな父の態度が理解できなかった。中川右介

中川右介著『昭和45年11月25日 三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃』(幻冬舎新書)――日本全体が動揺し、今なお真相と意味が問われる三島事件。文壇、演劇・映画界、政界、マスコミ百数十人の当日の記録を丹念に拾い時系列で再構築、日本人の無意識なる変化をあぶり出した新しいノンフィクション。

 

 

(第二章 真昼の衝撃)
 

 大映
 大映(現・角川映画)のプロデューサー藤井浩明は、この日は昼頃に大映本社に着いた。

 玄関で待ち受けていた企画部の若い社員が、藤井の顔を見るなり、叫んだ。

「三島先生が、大変です!」

 

 藤井はこの年、四十三歳。早稲田大学卒業後、大映に入社し、主に市川崑、増村保造らの作品をプロデュースした。一九五七年に三島の『永すぎた春』を、増村保造監督、若尾文子(あやこ)主演で映画化したのが、三島との関係の始まりだった。一九六〇年に三島が主演した『からっ風野郎』も藤井のプロデュースである。三島が原作・脚色・監督・主演した映画『憂国』の製作にも、会社に黙って協力した。

 映画『憂国』は一九六五年の作品だった。三十分ほどの短編で、台詞はまったくなく、ワーグナーの音楽がひたすら流れているだけだ。三島の切腹シーンが話題となった。

 一九七〇年の夏、藤井と新潮社の新田敞は三島と食事をした際、「いずれ私の全集が新潮社から出るだろうから、その時は、最終巻に『憂国』を入れてもらいたい」と言われていた。この時期、DVDはおろか、ビデオもまだ一般的ではない。

 事件後、観たいと希望する声は多かったが、『憂国』は遺族の意向で封印され、映画館で上映されることもなかった。二〇〇六年になって、ようやく、新潮社の「決定版三島由紀夫全集」の別巻としてDVDになった『憂国』が発行される。

 

 矢代静一
 劇作家で、三島の文学座時代には同志だった矢代静一は、自宅で事件を知った。

 矢代はこの年、四十三歳。早稲田大学文学部仏文科に入学するが、休学して俳優座に入り、一九五〇年に文学座に移って、三島との親交が始まった。一九六三年に三島が文学座のために書いた『喜びの琴』の上演中止事件で文学座が分裂した際は、矢代は三島と共に文学座を退座し、グループNLT結成に参加した。NLTは、「新文学座」を意味するラテン語「Neo Litterature Theatre」の頭文字をとったものだった。しかし、このNLTも一九六八年に分裂し、三島は浪曼劇場を結成する。矢代はフリーになった。

 《バルコニーで仁王立ちになっている三島の姿がテレビに映されたとき、見ていた私の右上顎の奥歯がコロリと抜け落ちた。私はいまでも、偶然ではなく、それはミステリアスな三島の呼びかけだと思っている。》

 矢代は親交のあった同世代の演劇人、加藤道夫(一九一八~一九五三、自殺)、三島由紀夫、芥川比呂志(あくたがわひろし、一九二〇~一九八一)の三人の回想を『旗手たちの青春』と題して、一九八五年に上梓(じょうし)するが、その最後の章にこうある。

 《彼等は三人が三人とも、人生のスタートラインについたときから、常に一番を志していた。だから劇的生涯を送ったのはもっともなことである。むろん、志を達成させるための方法は違っていた。》

 三島の死から十五年後に出されたこの本を書くにあたり、矢代は新聞の切抜帖から、一九七〇年十一月二十五日の朝日新聞の夕刊を取り出す。

 《もう一度、自衛隊バルコニーで屹立している姿を眺める。美しく装っている。まるで舞台の書割りを背にして演じているようだ。私はつぶやく、「伝説の人になってしまったね」。》

 矢代は弔問には行かなかったので、三島の死に顔は見ていない。

 

 鶴田浩二
 俳優鶴田浩二の娘、愛弓(あゆみ、当時十四歳)によると、この日、鶴田は映画撮影のために京都にいた。父と三島とが親しいことを、愛弓はよく知っていた。

 《父と三島さんは、会うたびに互いの思いが深まるようで、遠目に眺めていると、昔からの友人が思いの丈をぶつけ合っているようにさえ見えた。》

 この日、愛弓は扁桃腺が腫れていたので学校を休み、自宅にいた。そして、テレビの速報で、「市ヶ谷駐屯地で三島由紀夫自決」というニュースを知る。

 《その瞬間、身体が震え出して止まらなくなった。ついこの間も家に見えた三島さんが自決したことは勿論ショックだったが、それ以上に、京都で仕事中だった父が受ける衝撃を考えるのが恐ろしかった。》

 愛弓は、どうしたらいいか分からないまま、とにかく京都にいる父に電話した。

 鶴田は事件をすでに知っており、驚くほど冷静だった。

「お花の手配をしなきゃな」と、呟くように言っただけだった。

 三島が鶴田の映画を絶賛したことから二人が親しくなったことを知っているメディアは、鶴田にコメントを求めたが、彼は沈黙した。愛弓は、そんな父の態度が当時は理解できなかった。

 《私には父の態度が不可解だった。三島さんの壮絶な死にショックを受けた様子がなかったことも、哀悼の意を公にも私的にも口にしなかったことも、何もかもが意外だった。》

 この前年にあたる一九六九年、鶴田と三島は「週刊プレイボーイ」七月八日号掲載の対談で、初めて会い、すっかり打ち解けた。三島が映画雑誌で鶴田の出た『総長賭博』を絶賛したのが、そのきっかけとなった。当時、東映のヤクザ映画はまともな映画評論の対象ではなく、三島のような高名な作家が論じたこと自体が話題になり、鶴田は感激していたのだ。

 二人は、ほとんど同年齢だった。三島が一九二五年一月十四日生まれで、鶴田は一九二四年十二月六日生まれだった。しかし、鶴田は学徒出陣で軍隊経験があるが、三島にはない。

 対談は、こう結ばれる。

 鶴田  ぼくはね、三島さん、民族祖国が基本であるという理(ことわり)ってものがちゃんとあると思うんです。人間、この理をきちんと守っていけばまちがいない。
 三島  そうなんだよ。きちんと自分のコトワリを守っていくことなんだよ。
 鶴田  昭和維新ですね、今は。
 三島  うん、昭和維新。いざというときは、オレはやるよ。
 鶴田  三島さん、そのときは電話一本かけてくださいよ。軍刀もって、ぼくもかけつけるから。
 三島  ワッハッハッハッ、きみはやっぱり、オレの思ったとおりの男だったな。

 しかし、決起の時、三島は鶴田には電話をかけなかった。

 村松英子は著書で鶴田浩二のこんな言葉を紹介している。

 《三島先生が亡くなった時、僕はやむにやまれぬ気持ちで日本刀を抜いて、号泣した。》

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一人の作家がクーデターに失敗し自決したにすぎないあの日、何故あれほど日本全体が動揺し、以後多くの人が事件を饒舌に語り記したか。そして今なお真相と意味が静かに問われている。文壇、演劇・映画界、政界、マスコミの百数十人の事件当日の記録を丹念に追い、時系列で再構築し、日本人の無意識なる変化を炙り出した新しいノンフィクション。

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中川右介

1960年生まれ。早稲田大学第二文学部卒業。出版社IPCの編集長として写真集を中心に美術書を編集、ソ連の出版社とも提携した。後、出版社アルファベータを設立し、代表取締役編集長に(2014年まで)。ドイツ、アメリカ等の出版社と提携し、音楽家や文学者の評伝や写真集を編集・出版。クラシック音楽、歌舞伎、映画、歌謡曲、マンガなどの分野で旺盛な執筆活動を続ける。おもな著書に『十一代目團十郎と六代目歌右衛門』『坂東玉三郎』『カラヤンとフルトヴェングラー』(以上、幻冬舎新書)、『歌舞伎 家と血と藝』(講談社現代新書)、『山口百恵』『松田聖子と中森明菜』(以上、朝日文庫)、『阿久悠と松本隆』(朝日新書)などがある。現在では幻の本となっている三島由紀夫が序文を書いた澁澤龍彦訳『マルキ・ド・サド選集』を発行した彰考書院の三代目にあたる(同社は倒産)。

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