ドラマやアニメの舞台を訪れる「聖地巡礼」の旅。想像するに、作品のファンたちを駆り立てるのは「物語を追体験したい」という熱い思いなのだろう。今回、訪れる先は福岡県柳川市にある「御花」。旧柳川藩主立花家の別邸だ。町じゅうに堀割がめぐり、今も「どんこ舟」が行き交う水の城下町で、国の名勝にも指定されている宿に滞在するのである。敷地7000坪。現存する近代和風建築、クロマツに囲まれた池庭、松濤園、大広間、迎賓館として使われた西洋館……。江戸の昔、藩主の邸宅として誕生してからずっと、家族の「住まい」であり続けたこの場所は、時代の荒波に揉まれながらも、末裔たちの「引き継いだ屋敷を手放してはならない」という強い思いの中、宿という形で生まれ変わった。大名系から伯爵家、そして料理旅館へ。「御花」へと変貌していった場所に泊まるということは、立花家が柳川と共に歩んだ400余年のストーリーを共有することである。……うん? 文化財好きの私にとっては、これこそが聖地巡礼なのかも。
西鉄柳川駅で下車し、まず向かったのは「どんこ舟」乗り場。船頭さんが竹竿一本で舟を操りながら、柳川の町を案内してくれる。空は青く、柳は目にも鮮やかな緑。舟がゆっくりと堀割を進んでいく。秋の気配を含んだ風も心地よい。まさに舟日和……と思ったそのとき、船頭さんが伸びやかな声で歌い出した。「♪あめあめ ふれふれ かあさんが、蛇の目でお迎え~」。えっ、なぜ今、雨ごい? ……そうだ。この童謡を書いた北原白秋は柳川の出身だった。「今の人は、蛇の目っていってもわからないんですよ」。歌い終えた船頭さんがそう言って笑う。いえ、いえ。私は古い人間なので、よくわかります♪ 水面は翡翠色にきらめいている。風が吹くたび、水に映る柳がゆらゆら揺れる。舟はさらに進んでいく。あ、すぐそこの岸辺に青サギが!「頭ぶつかりますから、ほらっ、かがんで!」 前を向けば、低い石橋が迫っている。船頭さんの合図で、慌てて身をかがめる。あれっ、というか、肝心の船頭さんが消えた? だけど、次の瞬間、橋を通り抜け身を起こしたところに、船頭さんが橋の上からポーンと船尾に着地。おお(拍手)! 圧巻のパフォーマンス。そこからは、何事もなかったように舟を進めていく。やがて白い暖簾が風になびくのが見えてきた。「御花」と染め抜かれている。穏やかな水音に包まれながら、宿泊先へと向かう。なんとまあ贅沢な。
今回、私が予約したのは、14代目の藩主のこだわりが詰まった「松濤園」を眺めながら、昼寝をしたり、本を読んだり、と思い思いに過ごせる「おひとり様プラン」。チェックイン1時間前から、貸し切りで寛げるという。スタッフの人に案内されて向かったのは、かつて殿様が寛いだという書斎。襖がすっと開いた途端、思わず「ほぉ」とため息が出た。正面には松濤園。クロマツに囲まれた池庭が障子戸いっぱいに広がっている。「あ、また青サギが! あそこにはカモも」。鳥を見つけるたびにいちいちはしゃぐ私に、スタッフの人は優しく相づちを打ってくれる。よくよく考えてみれば、「御花」にとっては、これが日常なのだ。いつも庭に鳥が遊びにきて、陽ざしを受けた池がきらめき、クロマツの向こうを雲がゆっくり流れていく。時おり風に乗って聴こえてくるのは、掘割を進む船頭の歌声。そんな風景とともに、この家の時間は流れてきた。文机の上には、茶菓子と緑茶が用意されていた。今からこの贅沢な空間を独り占めだ。
「それではごゆっくり」。スタッフが部屋を後にした。ひとりになったら、すばやくゴザの前へ移動。思い切り、大の字に。せっかく殿様の書斎に来たというのに、風情も何もあったものじゃないが、これが実に気持ちいい。寝転んだまま庭を眺めて、起きあがってお茶をひと口。文机に向かって、少し書き物……などと思ってはみるが、すぐに挫折し、また庭を眺める。文庫本を開いても、いつの間にか視線は障子戸の向こうへ。カモが何羽いるか数えてみたり、カモ同士の相関関係を考察してみたり。殿様のプライベート空間は、決して華美ではない。格天井も襖も、それなりに時を経ている。今風にアップデートした「昔」ではなく、過去からの時間が連綿として残っている。常宿泊棟の客室では味わえないこの家の「暮らし」にほんの少し触れられた。「古い」という字は「旧い―1日」とも書く。ずっと昔の誰かが、たしかにここで過ごした1日。その積み重なりの中に、私の1日もほんの少し重ねてもらったような気がした。
続いては館内ツアー。建物を巡りながらスタッフに立花家の歴史を教えてもらえる。なんといっても、その歴史、400余年である。元和から令和まで、数えきれないほどの元号をまたぎ立花家の物語は続いてきた。松濤園全体をくまなく見渡せる100畳の大広間。長い廊下の長押の上には、安土桃山時代の金箔の兜がずらりと並ぶ。樹齢400才をこえる中庭の蘇鉄を横目に白亜の西洋館に移れば、初期の電灯設備や西洋式のシェードランプに、100年前のトイレのドアノブまで。歴史的価値からいえば、いずれも博物館のガラスケース越しに眺めていてもおかしくないようなものばかり。なのに「御花」では、暮らしと切り離されることなく、そこにある。美しい意匠が凝らされた西洋館の階段をしばし眺めていると、「こちらのお子さんたちは、幼い頃、この手すりを滑って遊んでは、怒られたそうです」。絶妙なタイミングで入るスタッフの説明で、文化財の階段が、現役の階段となり、今とつながる。400余年という途方もない時間も、そこで暮らした人たちにとっては一日一日の積み重ねだったのだと知る。
部屋に戻って晩ご飯までひと休み。実はチェックイン後、この部屋のドアを開けたときの私の感想は少々そっけないものだった。広々として美しく整えられている。けれど、最新の設備が揃っているわけでも、目を奪うような華やかな仕掛けがあるわけでもない。正直にいえば、そのときはあまり印象に残らなかった。ところが、である。日が傾き始めると、部屋の空気が一変した。窓の外に広がる屋根瓦は夕陽を受け美しく佇む。視線を少し移せば、池は常盤色に輝き、その向こうではクロマツが各々思い思いの影を落としている。そうだ。この部屋は、目の前に広がる景色を慈しむためにあるのだ。瓦屋根も池も松も刻々と表情を変えていく。400余年続いてきた立花家。その傍らには、ずっとこの景色があった。この悠久の移ろいをいつまでも眺めていたい。空は茜色に染まっていく。
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暮らすホテル

遠くへ出かけるよりも、自分の部屋や近所で過ごすのが大好きな作家・越智月子さん。そんな彼女が目覚めたのが、ホテル。非日常ではなく、暮らすように泊まる一人旅の記録を綴ったエッセイ。
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