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暮らすホテル

2026.09.02 公開 ポスト

唯一無二のトレインビュー  旅の特等席 ホテルメトロポリタン大井町トラックス越智月子(作家)

子供の頃、よく「遠くへ行きたい」という旅番組を見ていた。流れていた主題歌の一節が今なお耳に残っている。♪知らない街を~で始まるその歌がすっかり刷り込まれているせいだからなのか、旅というものは、遠くへ行かなければ始まらないもの。電車、船、飛行機……。見慣れた街並みが少しずつ遠ざかっていくのを窓から眺める。そんな移動の時間が加わって初めて、旅は旅らしくなるものだと思っていた。だけど、少し目を凝らしてみれば、案外、身近なところにも「旅先」があった。

 
眼下に広がるのはJR東日本の広大な車両基地。圧巻!

そんなわけで、今回泊まってみたのは、最寄り駅からわずか一駅隣のホテル。2026年3月に開業したばかりの「ホテルメトロポリタン大井町トラックス」だ。JR大井町駅に直結する複合施設「大井町トラックス」内にある……というか改札をくぐれば徒歩1分。とにかく近い。私の場合、家に忘れ物をしても、30分以内には取りに帰って戻ってこられそうな距離。そんな近場にわざわざ泊まる必要があるのかと問われれば……。

エントランス付近。ホテル全体のコンセプトは自然のやすらぎと旅の好奇心を調和させた「心躍るやすらぎ」
アーチ状の天井がレトロで嬉しいエレベーターホール

いや、それでも、むしょうに泊まってみたかった。宿泊サイトをつらつら見ていて、ひとめ惚れしてしまったのだ。なんたって北側に位置するコーナーツインからの眺めが唯一無二! 二方向に大きく窓が取られ、眼下には大井町の街並みが広がっている。その中心にあるのは何本もの線路とJR東日本の車両基地だ。とりたてて鉄道に詳しいというわけではない。それでも、高いところから眺めるトレインビューは、どうしてこうも心躍るのだろうか。ビル群に挟まれるようにしてひっきりなしに走っていく色とりどりの電車。複雑に交差しながら伸びていく線路。あれ、今、サンライズ出雲が通りすぎた? うん、今度は踊り子号? と思ったら、今、車両基地の向こうを走っていったのは新幹線じゃないですか。窓辺の椅子に腰をおろしてしばらく眺める。ほんの少し前まで、自分もあそこを走る電車に乗っていたのだと思うとなんとも不思議な気分になる。たった一駅移動し、エレベーターを使ってこの部屋にきただけ。それなのに行き慣れた町が、新しく遠い場所に見えてくる。旅先では、知らない景色に出会うことが楽しみのひとつとなる。でも、よく知っている景色をいつもとは違う角度から眺めるのもまた同じくらい新鮮な体験だ。やったね、私だけの特等席を見つけた♡

まずドアをあけて目に入る景色
窓辺によると眼下に車両基地が広がる

旅情をかきたてる仕掛けは、まだまだある。内装だ。「森小屋」をイメージしてデザインされたというこの部屋はシンプルといえばとてもシンプルな造り。でも、温かみがある。なぜだろう。ベッドに寝転んで考えてみる。窓から見えるのは空だけ。ソファやファブリックは深い緑。日本の伝統色でいうところの「常盤色」が、濃茶の木目の質感とあいまって、なるほど森の中までやってきたような静けさに包まれる。ベッドの高さも計算されているのだろう。「えいや」と起き上がった途端、前述通りのビルに囲まれたトレインビューが視界に飛び込んでくる。この「森小屋」から「鉄道聖地」への、ギャップがよろし。自然のやすらぎと旅の楽しみがまさに同居している。

気がつけば空の色が変わっている

旅先なら朝から街に出てできるだけたくさんのものを観ようとする。でも、一駅先では急ぐ必要はない。「森小屋」で、ベッドに寝転んで本を読んだり、お茶を飲んだり。どれも家でやっていることばかり。ど真ん中の日常ではあるが、場所が変わるだけで、時間の流れまでもが違って感じられる。まだまだたっぷり時間があるかと思っていたら、えっ、もうこんな時間? ゆったりとこのひとときが永遠に続くような、いやいや瞬く間に過ぎゆくような……。その間を行き来する不思議な感覚。気がつくと、窓の外の色が変わってきた。

空の色が変わり始めたらルーフ―バーへGO!
カクテルも美味&映える

さて、そろそろ、ホテル内を旅する時間となった。エレベーターで26階にあがり「ザ トラベラーズハウス ルーフトップバー」へ。「DEEP GREEN」がコンセプトという店内は、観葉植物が生い茂るように配置され、熱帯を思わせる雰囲気。テラスに出ると地上100mのトーキョーパノラマが、どーんと広がる。あ、今、夜風が頬を撫でていった! しばし眼下を見つめる。ガラス一枚隔てずに刻々と暮れゆく街を見渡せる贅沢。小金色がかった空が濃紺へ変わっていく中で、次々と街に灯りがともってくる。線路を行きかう電車、道路を走る車、高層ビル群、東京タワー、スカイツリー……その向こうの、そのまた向こうまで光がつながっていく。ここは海外のホテルでも海辺のリゾートでもない。眼下にあるのは、住み慣れた東京だ。なのに、こうして地上から離れて眺めるだけで、まったく知らない遠くの街までやってきたように思えてくる。

部屋から見る夜景はくせになる
ずっと見ていられる朝の光景
旅気分を愉しめるレストラン
朝はフォー定食!

翌朝、カーテンを開けると街はもう動き始めていた。夜のとばりの中、光の粒をまとって眠っていた電車はすでに走り始めている。旅は遠くに行くからこそその楽しさがある。知らない土地を歩き、知らないものを食べ、初めて見る景色に出会う。そのプロセスは心躍る。もちろん、これからもやめられない。でも……。昨日とは違う空のもと、行き交う電車を見ていてふと思った。たとえば、この風景をただ眺めているだけでも、心は遠くに行ける。そう旅は成立する。松尾芭蕉の言葉を借りるなら「月日は百代の過客なり。行きかう電車もまた旅人なり」なのだ。必要なのは距離や時間ではない。いつもの暮らしの中の至るところに「小さな旅」は隠されている。

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暮らすホテル

遠くへ出かけるよりも、自分の部屋や近所で過ごすのが大好きな作家・越智月子さん。そんな彼女が目覚めたのが、ホテル。非日常ではなく、暮らすように泊まる一人旅の記録を綴ったエッセイ。

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越智月子 作家

1965年、福岡県生まれ。2006年に『きょうの私は、どうかしている』でデビュー。他に『モンスターU子の嘘』『帰ってきたエンジェルス』『咲ク・ララ・ファミリア』『片をつける』『鎌倉駅徒歩8分、空室あり』『鎌倉駅徒歩8分、また明日』など。

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