最近よく耳にするブックホテル。私なりの解釈では、本を読む時間をより心地よく過ごすために整えられているホテルをそう呼ぶ。客室やラウンジに並ぶ蔵書の充実はもちろんのこと、本に自然と手が伸びるような空気作り。照明の柔らかさや椅子の座り心地、周囲の静けさ――そうした細やかな要素が重なりあって初めて読書に没頭できる。これまた勝手なイメージだが「箱根本箱」はそんな読書体験がかなう場所ではないか。そう思い立ち、いざ箱根へ。最寄りの品川から小田原へ。さらに箱根湯本で箱根登山鉄道に乗り換え、6駅36分かけて強羅に。そこから先は電車では登れないほどの急坂のため、箱根登山ケーブルカーに。すでに駅自体が傾斜していてなかなかの迫力。箱根といえば、東海道の中でも最大の難所と言われていた。昔の旅人たちはどうやってこの坂を越えたのだろうか。などと考えているうちに中強羅駅へ到着。ここからもまたゆるやかな坂道。30メートルほどあがり、石垣の途切れる場所に目指すホテル「箱根本箱」があった。
館内に足を踏み入れると、吹き抜けのラウンジがどーん。壁一面を埋め尽くすように設えられた本棚には新刊はもちろん、古書、絵本、洋書……。「衣・食・住・遊・休・知」を中心に選ばれたその数、実に1万2千冊。前情報はあったが、実際に目の当たりにすると、ただただ圧巻。さらにラウンジには「名作」と言われる北欧の美しい椅子の数々が。こちらも眼福。「いらっしゃいませ」。笑顔で出迎えてくれたスタッフが「チェックインの手続きをしますので、お好きな場所におかけください」ですって。私の目の前にあるのは、卵のような柔らかなフォルムの椅子。そう、デンマークの建築家、アルネ・ヤコブセンが設計したエッグチェアだ。「では、これに座ってもいいですか」。すごく欲しいけれど、高い! 存在感がありすぎ! で、我が家の狭いリビングに置くにはためらってしまうこの椅子も、広いラウンジの中ではしっくりと馴染んでいる。腰をおろせば、身体ごとすっぽり包み込まれる。「ここにある本は、すべてお部屋に持ち込みが可能。購入もできます」。そう言ってスタッフは私の背後を指さす。「あちらを曲がったところがスーベニアショップです。ショップの本もお部屋に持っていけますよ」。どこどこ? とエッグチェアごとくるりと後ろを向くと、あら! さっきは気がつかなかった。 入口、フロント付近にも本棚が。360度どこを見ても本、本、本。さぁ、これから一日、読書三昧だ。
18室ある客室はぜんぶで7種類。すべて異なるデザインだという。私が泊まったのは箱根外輪山を望む部屋。窓を開ければ鳥のさえずりが聴こえる。テレビはない。木の温かみを感じる室内で聴こえてくるのは、自然の音だけ。レースのカーテンはあえて使っておらず遮光カーテン一枚のみ。大きな窓からは自然光が差し込み、檜の露天風呂がある広いテラスまでひとつながりのように感じる。壁際には各界の第一線で活躍する人々がプロデュースした「あの人の本箱」が。置かれていた解説文とともにしばし本を眺める。文庫、新書、絵本、写真集、画集など、なるほどこう来るかというラインナップ。さて、部屋には誰が選んだ、どんな本が並んでいたか……それは秘密。宿泊者だけのお愉しみ♡
「本のある暮らし」。よい言葉だな。そういえば、本から一本横棒をとると「木のある暮らし」になる……などと、檜風呂を愛でていると、テラスに春の柔らかな風が舞い込んできた。ほのかに硫黄の匂い漂うお湯の温度もちょうどよい。ツピツピツピ ツピツピツピ 鳥の伴奏を聴きながら、湯けむりとともにたちのぼる香りに癒され、冷蔵庫の中に入っていたプチシャンパンを飲む。贅沢な、ちょっぴり背徳のバスタイムが終わった。次なるは館内ツアー。一歩客室を出れば、本当に至るところに本がある。廊下を歩いているとサイドには本箱。逆サイドにまた本箱。大きなクッションに身を預けられるおこもりスペースもあれば、廊下の先はプチ書斎のごときスペースも。コーヒーやハーブティー飲み放題のランンジを横目に二階の客室から本棚脇のゆるやかな階段を降りていく。あれ? 思わず二度見。本棚の間にまでニッチな読書空間が。渡り廊下の脇には北斎を始めとした浮世絵の画集が並ぶ。逆サイドに渡ると、植物に関する本が増えてきた。「これ、ちょっと読みたいかも」薬草植物の本を手に取り、名作チェアが並ぶラウンジへ。スペインのハイメ・アジョンがデザインしたロメオチェアが空いていたので、さっそく腰をおろす。大きな背もたれに身を預けると、丸みを帯びたフォルムが視線や音をさえぎる。その瞬間、誰にも邪魔されない私だけの居場所に早変わり。いいな、この感じ。本散歩の途中で腰をおろし、ページを開く。読書の場所が点在しているというより、館内そのものが読書空間、今まさに「本箱」の中にいる。
箱根本箱の夕食は「ローカルガストロノミー」。地域の風土や歴史、文化さらには農林漁業の営みを料理として表現すること――というのは前情報で仕入れてはいたが、この聞き慣れない言葉、いまひとつどんなものか想像がつかなかった。でも、見て食べて納得。提供される料理はただ土地の名物を並べるのではない。この土地の記憶や背景をテーマに編み直したもの。壁一面に飾られたブックアートが目をひくオープンスタイルのカウンターで供されるひと皿ひと皿には箱根という「東海道の要所であった土地」の性格が溶け込んでいる。「エナジードリンク」「グレーゾーン」などお品書きに謎解きのように書かれた文言を見ながら、次に出てくる料理にはどんなストーリーが込められているのか、想像する時間のなんと豊かなことか。生産者の想いが詰まった海の幸、山の幸。有機野菜や柑橘などを主役にしたひと皿が思い描いていたイメージ通りだと嬉しいし、違えば違うで、なるほどそういうことかとまた愉しい。そして何を食べても美味しい。そういえば「本箱」の箱は、箱根の「箱」でもあるんだなと思ったり。読むという行為はただ文字を追うだけではない。五感で味わうことでもあるのだなぁと感じてみたり。本を読むこと、泊まること、そして土地を味わうこと。その三つが深く優しく交差する滞在だった。
暮らすホテル

遠くへ出かけるよりも、自分の部屋や近所で過ごすのが大好きな作家・越智月子さん。そんな彼女が目覚めたのが、ホテル。非日常ではなく、暮らすように泊まる一人旅の記録を綴ったエッセイ。










