この一年余り、いろいろなホテルに泊まってみて気づいた。どうやら私は海の見える部屋に弱いらしい。窓の向こうに海がある。それだけで時間の流れが緩やかになり、リラックスできる。せっかくよい部屋に泊まるんだから、一分一秒たりとも無駄にしてはいけない、次は何をしよう……などと気ぜわしいことも考えなくなる。自分のためにコーヒーを淹れ、マグカップ片手に穏やかに揺れる波をただ眺めている。そんな時間がたまらなく好きなのだ。四月某日、次はどこへ泊まろうかと考えていると、思いついた。そうだ、海を見ながら移動できる部屋はどうだろう。早速パソコンを開き、調べてみた。いいなと思ったら値段が高すぎたり、すでに予約で埋まっていたり……。船旅選びって難しいなぁと思い始めたそのとき、手が止まった。これだっ! 〈さんふらわあ〉。赤い太陽マークが目印のあの大型フェリーである。
「動くホテル」初心者として私が選んだのは、2023年に就航した〈さんふらわあ くれない〉。大阪港を19時に出航し、翌朝6時55分に別府港へと到着する夜行船だ。所要時間はおよそ12時間。新幹線や飛行機に比べるとかなり長い移動となる。初めてのひとり船旅。うまく乗船できるだろうか、少しばかり不安だった。でも案ずるより……である。最寄り駅の改札を出ると、案内表示が乗り場まで導いてくれる。オンラインチケットを事前購入したおかげでチェックインもスムーズだ。船内へ足を踏み入れた途端、思わず息をのむ。目の前に広がるのは、三層吹き抜けの豪華なアトリウム。リアルホテルのロビーに迷い込んだのかと錯覚する。さざ波を思わせるエメラルドグリーンの大階段を一段また一段、踏みしめていると、これから始まる船旅への期待がふくらんでいく。
るやかに弧を描く階段をのぼると、その先に船室へと続く廊下が伸びていた。予約したのはバルコニーつきの客室。QRコードがキーがわりとなる。ドアを開けると、そこには落ち着いた色味のインテリアが広がっていた。荷物を置くより先に窓辺に駆けより、バルコニーへ。潮の香りを含んだ風が頬を撫でる。出航を目前に係員たちが忙しなく動き回っている。ボォーーーッ。ほどなくして、腹の底に響く汽笛が港を震わせた。船体がゆっくりと動き出す。街並みが少しずつ遠ざかり、街の灯りが点々と海へにじんでいく。暮れなずむ空を映した海は銀色にきらめいている。<さんふらわあ くれない>は確かな速度で夜へと向かっていく。
夕食は船内レストランへ。瀬戸内の食材や郷土料理を取り入れたビュッフェスタイルで、カレー、スパゲティ、しゅうまい、おでん…… 和洋中さまざまな料理が色とりどりに並んでいるのを見ていると、全制覇したくなる。まずは第一弾……。吟味しながら仕切り皿に取り分けていく。味のバランスを考えながらどれを選ぼうかと迷う時間もまた楽しい。 香ばしい匂い、乗客の会話のきれぎれ、食器が奏でる音が心地よい。席はもちろん窓際。大分の名物であるとり天をひと口味わい、視線を上げると、海が群青色へと変わり始めていた。深く沈んだような夜の波がじわじわと打ち寄せる。
食事のあと部屋で寛いでいると「まもなく明石海峡大橋がご覧になれます」というアナウンスが聴こえてきた。急いでバルコニーへ出る。夜風に吹かれていると藍色の海の向こうに、ライトアップされた大橋が浮かび上がってくる。航路に従って光の帯が少しずつ角度を変えていく。大橋にさしかかってきた。頭上に広がる光のアーチがきらめき、夜空と海の境界が溶けあったかのようだった。余韻に浸りながらしばしく夜気に触れる。部屋へ戻ると、旅の疲れをほどきたくなり、大浴場へ向かうことにした。菫色の暖簾をくぐり、扉を開ける。湯気がふわりと立ちのぼり、ほっとするような温度が肌を包んだ。湯舟に身を沈め、窓辺に寄る。手拭いで湯気を払う。窓の外は漆黒の海原が広がっている。船旅だけに許された特別な時間。湯から上がり、ほかほかとした身体で部屋へ戻り、 ベッドにもぐりこむ。背中からかすかな振動が伝わってきた。揺れているというより、船の鼓動に身を預けているような……。だんだんとまぶたが重くなっていく。
翌朝は珍しく「超」がつくほど早く起きた。カーテンを開けるまでもなく、窓の外には昨夜とはまるで違う景色が広がっている。船内が静まり返っているうちに身支度を整え、デッキへと出てみた。空は淡い灰色、ひんやりとした風が眠気を洗い流してくれる。海霧がかすかに混ざる空気を胸いっぱいに吸い込むと、潮の香りが身体の隅々まで満ちていく。瀬戸内海がゆるやかに揺れ、青灰色の島々の影が後ろへ流れていく。
移りゆく景色を眺めていると、空にむかって白い筋が立ち上っているのが見えてきた。船が進むにつれ、その白さは、濃く、太く、力強くなっていく。――あれは……? そうだ、湯けむりだ。少し、また少し、湯の街へ吸い寄せられていく。高揚感が、波のリズムと重なって広がっていく。船はゆっくりとしかし確実に白煙に向かって進んでいく。 今まさに旅は次の章へ踏み出そうとしている。
暮らすホテル

遠くへ出かけるよりも、自分の部屋や近所で過ごすのが大好きな作家・越智月子さん。そんな彼女が目覚めたのが、ホテル。非日常ではなく、暮らすように泊まる一人旅の記録を綴ったエッセイ。
- バックナンバー
-
- 航るホテル、波のゆらめき 湯煙りの町へ ...
- 田んぼに浮かぶホテルで 晴耕雨読の時を過...
- 本を、土地を、食事を 五感で読む 箱根本...
- アート作品の中に浸る、泊まる 五感が開く...
- みなとみらいの絶景とともに 「船旅」を...
- 東京の中心で触れあう ジャパニーズホスピ...
- 芽吹き、つながる 五感で愉しむアートホテ...
- 任天堂旧本社×安藤忠雄 懐かしくも新し...
- 東京の玄関口 赤煉瓦の中のプチトリップ ...
- 軽井沢の森 あの人の暮らした部屋で寛ぐ ...
- 光と音と色彩と 古くて新しい空間に酔う ...
- 港町ヨコハマに浸る HOTEL NEW ...
- 江ノ島を独り占めできる青い部屋 HOTE...
- 出不精の私を変えた「ひとめ惚れホテル」 ...










