本連載では、元薬物依存症患者の風間暁さんと精神科医の松本俊彦さんの公開診療をお届けしています。
患者と精神科医という関係を超えた子弟でもあり、共に精神医療の常識に挑戦する「戦友」でもあるおふたり。「うつは心の風邪」「ダメ。ゼッタイ。」といったフレーズが生み出す精神疾患への思い込みや偏見。診察室の中で生じる権威勾配や「診断」という暴力など精神医療のタブーに切り込みながら、患者の主体性を取り戻し、医療との新たな協働のあり方を提言するスリリングな往復書簡『先生、心の病って本当に治さなきゃいけないんですか?』。
第2回は松本俊彦さんからのお返事です。
* * *
精神科医が「心の病」と向き合う際に気に留めたい、「治療」よりも大切なこと
風間さん、初回からアクセル全開ですね。おかげで頭の中が真っ白になりました。特に風間さんから投げかけられた質問、「私は、別に治したくもない薬物依存症や解離性障害を、一体、何のために治さないといけないんですか。そもそも先生は、心の病を治せると思って、精神科医をやっているのでしょうか」という言葉、ずっと残響していて、思考停止状態が続いています。
でも、締め切りが迫ってきました。なんとかお返事を書いてみましょう。
依存症治療はカルチャーへの否定?
診察室での「好きなアーティストに関するやりとり」、私もよく覚えていますよ。レゲエや坂口安吾の話、確かにしましたね。
お察しのように、若かりし頃、私は屈託した気持ちを抱き、そんな自分の気持ちを表現してくれるアーティストを探し求めていました。不思議だったのは、自分が好きになるアーティストは、なぜかドラッグと関係のある人ばかりだったことです。
ミュージシャンでいえば、10代の頃にT. REXのマーク・ボランが好きでした。ボランは長らくヘロインに耽溺して身体が衰弱していて、最終的に交通事故であっけなく夭逝しています。
20代になってからはもっぱらレゲエでした。レゲエといえばやっぱり「ガンジャ」(大麻)ですよね。医学生時代、毎年夏になると、私はお気に入りのラスタ帽をかぶり、ガンジャを吹かすボブ・マーリーの顔(アルバム『Catch A Fire』のレコードジャケットの絵柄です)がプリントされたTシャツを着て、意気揚々とジャパン・スプラッシュに出かけたものです。
作家だと、太宰治や坂口安吾、それから中上健次なんかが好きでした。太宰のパビナール中毒や坂口の覚醒剤乱用は有名ですが、紀州の被差別部落を舞台にした、壮大なサーガを書き続けた中上もまた、若い頃、フーテン族の一員として新宿のジャズ喫茶でハイミナール(市販睡眠薬)をオーバードーズしては、ラリった状態で自分の腕に「根性焼き」をしていたのです。
実は、私が依存症専門医になったのは、完全な偶然、むしろ想定外の出来事でした。もう30年も昔の話ですが、依存症専門病院に医師の欠員が出て、当時所属していた大学医局から誰かを派遣しなければならなくなって、医師のあいだでゴタゴタが生じたのです。それくらい依存症は、精神科医業界の不人気分野でした。そして、その「あまりにも美しくない譲り合い」に業を煮やした私が、半ばやけくそで「ジャンケンで決めよう」と提案したら、自分が負けた――それがきっかけだったのです。
しかし、自分が提案した人事ジャンケンに負けたにもかかわらず、それでもなお、私は依存症専門病院への赴任を渋り、ごねたのを覚えています。依存症の治療というものが、自分の愛するカルチャーを否定する仕事のように感じられたからです。そんなわけで、もしも依存症専門医としての私のスタイルが、当事者に支持的で多少とも優しいとすれば、そこには私の文化的背景が影響している気がします。
診断基準が曖昧な「心の病」
それにしても、「心の病」ってなんだかよくわからないものですね。
ふつう病気というものは、まとまった典型的な症状があります。そして、症状の背景には臓器の炎症や出血、あるいは組織変性や異物占拠といった病態があり、さらには、そうした変化を反映した検査所見があって、その病態に対する根本的な治療が存在します。内科学では、この「症状・病態生理・検査所見・治療法」がそろってこそ、一つの独立した疾患と呼ぶことを許されます。
ところが、「心の病」はこのあたりが全然ダメなのです。もちろん、診断基準なるものは存在しますが、所詮は、専門家同士の合意によって定めた、「暫定的な軍事境界線」みたいなものにすぎません。おまけに、その診断基準も数年ごとに改訂され、同じ人間が、ある時期から突然うつ病に該当するようになったり、あるいは、該当しなくなったりする、という怪奇現象も起こるわけです。
それだけではありません。時代の風潮や社会の変化によって、ある病気が突如として出現したり、あるいは、病気のリストから消失したりすることさえあります。前者の代表例が「ゲーム行動症」(ゲーム依存)ですし、後者の代表には「同性愛」があげられます。要するに、精神疾患はその時代の風潮や人々の価値観によって左右され、その点で、純粋な医学としてはかなり心許ないのです。
それでもなお、精神医学は、いつの日か正真正銘の医学の一分野として列する、という夢を捨てきれませんでした。そこには過去の成功体験が影響しています。
遡ること百年前、精神医学における主役的疾患は「進行麻痺」でした。この病気は、梅毒の原因であるスピロヘータ菌が脳を広く侵すことによって生じる重篤な精神・神経疾患です。当時、進行麻痺は、精神科病院の長期入院患者の多くを占める不治の病でした。作曲家のシューマンや哲学者のニーチェも晩年これに罹患して錯乱と認知症を呈し、数年のうちに生涯を終えたことは、よく知られています。
ところが、1941年の抗生物質ペニシリン登場ですべては一変しました。進行麻痺は早期治療によって回復可能、少なくとも進行を食い止めることが可能となりました。これは劇的な変化でした。それ以降、精神医学者たちはこの成功体験を忘れることができず、精神疾患が内科疾患と同列に臨む日を夢見て、血液や脳波、神経画像、あるいは遺伝子などを調べては、生物的根拠を躍起になって探し求めてきたわけです。
その結果、精神医学は内科学の悪趣味なパロディとなってしまいました。考えてもみてください。統合失調症やうつ病といった代表的な精神疾患でさえも、いまだ疾患の病因は不明で、特徴的な身体医学的検査所見も存在しない始末です。そればかりか、有効とされている薬物療法でさえも、本当のところ作用機序は依然わからないままです。もちろん、精神薬理学者や製薬企業は、「ドーパミンやセロトニンの受容体がどうのこうの」ともっともらしく説明しますが、それが精神疾患の根本的な原因に効いているのか、それとも、二次的な防御反応――たとえば、細菌感染に際しての白血球増加のような反応――に効いているのかさえ判然としていないのです。
かくも頼りない精神医学ではありますが、いや、だからこそ、精神科医のなかで一番人気のある精神疾患が統合失調症となっているのです。理由は明らかです。幻聴とか妄想といった、明らかに異常な症状が出現しますし、薬物療法の奏効率も他の疾患よりも高く、医者は自己効力感や有用感を体験しやすいからです。
一方、精神科医の多くが苦手意識を持っていて、できれば遭遇したくないと思っている疾患の代表例は、やはり依存症でしょう。理由は簡単です。依存症は社会のありようや価値観に左右され、何をもって依存症と診断するのか、その基準があまりに不明瞭だからです。たとえば、普段は酒もタバコもやらないかわりに、週末だけ大麻を楽しむという節度のある人も、逮捕をきっかけに「薬物依存症」という不名誉な烙印を押されてしまいます。あるいはまた、寝食を忘れて勉強に打ち込む子どもは賞賛されますが、打ち込む対象が勉強からゲームへと替わった途端に、大人たちは「依存症だ」などと騒ぎ立てるのです。
「回復」という言葉の教条化
実は精神医学には、「これは医学的問題ではない」として依存症治療から手を引いた時代があります。やはり百年ほど昔の話です。もしかすると、当時の精神医学者たちは、依存症と呼ばれる行動上の問題が、医学よりも道徳的問題と近接していて、「手出しすると厄介なことになる」と直感していたのかもしれません。
ところが、1935年に世界最初の自助グループ、「アルコホリクス・アノニマス」(通称AA)が誕生し、依存症からの回復者を輩出するようになると、事態は一変します。それを機に、AAが唱える、「飲み続ける限り進行する慢性疾患」「完治はしないが、断酒・断薬し続ければ回復できる」という「アルコホリズム」(アルコール症)の考え方が広まったのです。やがてそれは米国医学会や世界保健機関によって追認され、精神科治療の対象として再浮上して、今日のアルコール依存症概念の礎となりました。
しかし、ここに陥穽があります。というのも、依存症概念の基底にあるアルコホリズムは、あくまでもAA会員だけを対象としたアンケート調査から抽出されたものにすぎず、問題飲酒者一般を反映しているとはいいがたかったからです。しかも後になって判明したことですが、女性のAA会員からの回答はすべて無視されていました。
誓っていいますが、私はAAの活動とその効果に敬意を抱いています。とはいえ、依存症概念が偏った集団から抽出されている以上、AAの治療理念にマッチしない当事者は必ず存在します。それにもかかわらず、治療理念が一人歩きし、人口に膾炙する過程で硬直化、教条化していけば、逆に、当事者を苦しめる枷ともなり得ます。
一例を挙げましょう。「否認」という言葉があります。これは、「俺は節度を持って飲酒している。断じて依存症ではない」と飲酒コントロールの喪失を否定する態度を意味します。なるほど、否認は依存症患者に特徴的ではあります。しかし、「AAは宗教臭いから嫌だ」と参加を拒む当事者を、この言葉で断罪する援助者がいるのは、とても残念なことです。だって、AAがオックスフォード・グループというキリスト教団体の影響下で誕生したのは紛れもない事実ですし、その回復プログラムの中核をなす12ステップにも、「私たちの意志と生きかたを、自分なりに理解した神の配慮にゆだねる決心をした」という言葉が出てくるわけです。それを頭ごなしに「否認」と断じるのは、一種の構造的暴力に当たるでしょう。
「回復」なる言葉もくせ者です。断酒が継続しているならば、「寛解」という中立的な表現で事足りるはずです。しかし、AAのいう「回復」には、寛解以上の意味があります。それは、断酒維持に加えて、肥大したエゴを退縮させ、「俺が、俺が」と自己主張しない謙虚な性格を手に入れることまで含意しているからです。
これって、医学的問題がいつしかピューリタン臭い道徳的問題にすり替わってないでしょうか? 実際、AAのコミュニティはもちろん、依存症支援に従事する援助者のあいだでも、声高に自己主張する当事者を指して、「ドライドランク(しらふの酔っ払い)」とか、「渇望が高まっている。まだまだ回復にはほど遠いね」などと揶揄する風潮があります。これらはまさに「回復マウント」といってよいでしょう。
「症状」は心の甲冑
さて、風間さんからの「心の病を治す必要があるのか?」という質問に関しても、少し私の経験を話させてください。
もう10年以上昔の話です。当時、私は、心理学的剖検研究という、自死遺族を情報源とする自殺既遂者の実態調査に携わっていました。そのなかで、20~30代女性の自殺既遂者には摂食症(摂食障害)の既往を持つ人が目立つことに気づきました。
ここでポイントとなるのは、あくまでも「既往」という点でした。そうした女性たちはいずれも、拒食、あるいは過食・嘔吐が激しい病気の渦中は自殺しておらず、むしろ食行動異常が消失し、一見、ふつうの女性として学校や職場に復帰した後にみずから命を絶っていたのです。
私はこう考えました。私たち精神科医が治療対象としていた食行動異常というものは、あくまでも表層の現象にすぎず、別の根本的な問題に対する防衛が、表面上、「症状」として見えていただけだったのではないか、それゆえ、不用意に症状を剥ぎ取ることは、戦場のようなこの世において、自分を守るための「心の甲冑」を脱がせる行為となってしまったのではないか、と。
依存症臨床でも同様のことが見られます。近年、感情的苦痛への対処としてオーバードーズをくりかえす若者が増加していますが、これに対して周囲の大人たちはしばしば市販薬没収という解決策を用います。その結果、一時的延命の手段を絶たれた若者が自殺行動へと至る、という事態が頻発しているからです。
いうまでもなく、アディクションは長期的には自殺の危険因子です。実際、アルコールや薬物であれ、ギャンブルであれ、依存症当事者の自殺率は非常に高い傾向があります。しかしその一方で、アディクションは短期的には自殺に対して保護的に作用し、一時的な延命には役立っている可能性があるのです。
その意味では、風間さんの「心の病気は治さなければいけないのか」という疑問は、実にもっともなことだと思います。
余計な治療はしないと決めた日
今でも風間さんとの最初の出会いのことを覚えています。
最初の診察のとき、風間さんの来歴を聞いて感じたのは、「よくぞ生き延びた」という感嘆の念でした。なるほど、その挑戦的な態度から社会への怒りが煮えたぎっているのがわかりましたが、それにもかかわらず、すでに嵐をくぐり抜け、峠を越えている人であると直感しました。そして何より、語彙や表現がとても豊かな人、この先、大化けする可能性を秘めている人だと思ったのを覚えています。
そのとき決めたことがあります。それは、「この人には余計な治療はしない」ということでした。風間さんに必要なのは、薬物療法でも認知行動療法でもなく、「出番」です。もちろん、たかだか医者ごときに「出番」を与えることなどかないませんが、だとしても、その機会を邪魔するようなことは、ゆめゆめあってはならない――そう決めたのです。予想は的中しました。その後、風間さんはASK[*1]の依存症予防教育アドバイザーの資格を取り、あれよあれよという間に活躍の場を広げていったからです。
要するに、私は主治医として何もしてきませんでした。まれに風間さんがふらっと診察室に現れた際には、ごく短時間、近況報告に耳を傾けるだけです。まあ、それで金を取っているわけですから、ひどい話ではありますね。ごめんなさい。
ただ、一つだけ弁解させてください。他の援助者から余計な手をつけられないように、「治療しなくともよい」というお墨付きを与えるのも、もしかすると精神科医の大切な仕事なのかもしれない、とも思うのです。
長々と書いてきました。まだ、「心の病は治せると思っているのか?」については未回答ですが、もはや紙幅が尽きました。次回の返信に乞うご期待とさせてください。
【脚注】
*1 アルコールをはじめとする依存性薬物、インターネット依存・ゲーム依存・ギャンブル依存などの問題を予防し、早期に発見して治療につなげ、回復を支援する社会を目指して活動する特定非営利活動法人(NPO)。設立当初の活動の中心は、アルコール依存症者の配偶者や子どもなど、アルコールの問題に悩む家族だった。そこへ医療・保健・福祉などの関係者や、回復者らも加わり、活動を発展させてきた。
先生、心の病って本当に治さなきゃいけないんですか?

近年、メンタルヘルスに関する知識やうつ病や発達障害などに対する理解が急速に社会に広がりつつあります。一方で、「心の病」について悩み、勇気を出してメンタルクリニックに通ってみても、なんだかしっくりこない。疑問に思うことがあっても口に出すことができない。そういう患者さんやユーザーも多いのではないでしょうか。
そこで、本連載では、元薬物依存症患者の風間暁さんと精神科医の松本俊彦さんの公開診療をお届け!
患者と精神科医という関係を超えた子弟でもあり、共に精神医療の常識に挑戦する「戦友」でもあるおふたり。「うつは心の風邪」「ダメ。ゼッタイ。」といったフレーズが生み出す精神疾患への思い込みや偏見。診察室の中で生じる権威勾配や「診断」という暴力など精神医療のタブーに切り込みながら、患者の主体性を取り戻し、医療との新たな協働のあり方を提言するスリリングな往復書簡です。











