民藝が好きだ。といっても、自慢のコレクションがあるわけでもなく、民藝の何たるかを語れるわけでもない。ただただ、使い込まれた木の椅子やあたたかみのある器、手仕事の跡が残るカゴや布を見ていると、ほっとする。そもそも民藝とは、名もなき作品群だ。その中心にあるのが「用の美」。 華やかさはない。だけど、見飽きない。その考え方は私が「暮らしたい」と思うホテルにも通じる。ホテルに非日常を求める人も多いけれど、私はむしろその部屋で日常を愉しめるかどうかが気になる。毎朝、ここでお茶を飲めるだろうか。この椅子に何時間も座ってぼーっとしていられるかどうか。三泊、四泊と連泊しても飽きないだろうか。「松本ホテル花月」はそのいずれもイエス! そんなホテルだった。
松本駅からホテルに向かう途中も、随所で民藝の気配をまとった器や絵や目に入る。 暮らしの道具としてつくられた、無名の手仕事にこそ美しさを見いだす――柳宗悦が提唱した民藝運動。それに心を動かされた池田三四郎が「松本民藝家具」を創り出したことが、この町の風景につながっているという。松本ホテル花月もまた「泊まれる民藝」を謳っている。気合いが入り過ぎて、チェックインの三十分前に着いてしまったが、迷わず併設のカフェ「八十六温館(ヤトロオンカン)」へ。ドアを開けた瞬間、「ああ、来てよかった」とにっこり。ほの暗い店内で淡い光を放つステンドグラス。手織りの緞通(座布団)。「お好きな席にどうぞ」と言われ、店内中ほどの席を確保。ブラック珈琲を彷彿とさせる艶やかな椅子に腰をおろす。1887年創業。長い時がつくったぬくもりがここにはある。 初めて来た場所なのに、滞在数分ですでに馴染んでいる自分に気づく。店名の由来となった八十六度で淹れた珈琲はあとのお愉しみ。季節はずれの汗ばむ陽気だったので、あえてのレモンスカッシュを注文。凍らせた果実が氷の代わりに入ったカナリア色の炭酸を飲みながら、 これから始まる滞在に胸が高鳴る。
チェックインの時間が近づいてきた。八十六温館から小さな階段を上がり、ホテルのロビーへ向かう。正面玄関は気負うことなく、木目のあっさりした造り。ホテルというより、和風旅館のような趣きだ。壁にはめ込まれたステンドグラスが柔らかな光を放っている。 館内には松本民藝家具がそこかしこに置かれているが、「民藝のホテルです」と声高に主張してくる感じはない。大輪の花を飾るように配置するのではなく、椅子は椅子、テーブルはテーブルとして、当たり前の顔でそこにある。 これぞ用の美。そう、民藝は眺めるためではなく、使うためにある。
いよいよ客室へ。 廊下を歩くあいだも、胸の奥がそわそわしていた。ドアを開けた瞬間、「はぁぁぁ」とため息が漏れた。 これこれこれ! 旅行サイトでひとめぼれした空間が、そのまま目の前に広がっている。瑠璃色の座面の椅子。 珈琲色の額縁に収まった、型染めを思わせる文様。 どれも声を張らず、そこにある。しばし見惚れたあと、洗面所のドアを開けても、また「はぁぁぁ」。 無駄な装飾はないのに、なぜだか落ち着く。 タイルの色が卵の殻のように穏やかな色だからだろうか。 この空気に早く身を沈めたい。荷物を入れようとクローゼットを開けると、鮮烈な朱が目に入った。 館内用のスリッパだ。 足に触れる面は畳敷きで、形は角ばっている。 奇抜にならない手前で抑えた、絶妙なバランス。心憎し。早速履いてみると、歩き疲れた足に、すっと馴染む。 ああ、ここでの滞在が始まった。
備えつけの器も土のあたたかみを感じるものだった。 紅茶を淹れて、瑠璃色の座面に腰をおろす。木が手に触れる。その瞬間、ふと想う。 これまで幾人が、この椅子に腰をおろしたのだろう。肘を置く部分だけ、色が少し薄くなっている。ここでは「色褪せている」という言い方はふさわしくない。 いい椅子だな、なんて座り心地がいいんだろう―― そんな声が積み重なっていった結果の、 珈琲色から樺色へ、そして亜麻色への移ろい。木肌はどこまでも艶やかだ。もちろん、小さな傷もいくつもある。 でも、それは家具の履歴。 古くなるのではなく、育っていく。 経年劣化ではなく、経年美化。民藝を「置いている」だけではない。 民藝と一緒に時を重ねている。
いつの間にか、器が空になっていた。 底に残った飴色のしずくが、光を受けてきらめいている。 器を手に取りしばし眺める。 毎日これでお茶を飲んだら、どんなに満ち足りるだろう。 そんな明日が、ふっと想像できた。窓の外の空は、青みが少し薄れてきた。 このまま部屋に籠ってしまいそうなので(それはそれで悪くないが)、少し民藝の町を歩いてみようか。ホテルから南へ数分。女鳥羽川(めとばがわ)を渡ると、民藝の店が集まる中町通りにつく。立ち並ぶ蔵の漆喰を支えるようになまこ壁が淡い光を受けている。 器の店、色ガラスを扱う店、手仕事の布を吊るした店。 いずれも声を張らず、静かに開いている。なんだかこの空気感……。歩いているうちに、ホテルで寛いでいたひとときと、この町を歩く今がひとつながりになっていく。 やがて足が自然とホテルの方へ向かう。 旅先なのに、家路をたどるときのような静かな安心があった。ホテルだけが特別な箱として存在しているのではない。 松本という町の空気に、すっと溶け込んでいる。 家具の木肌が育つように、町もまた、穏やかに人を受け入れていく。そんな場所に身を置いていることが、とてつもなく豊かに感じられた。
暮らすホテル

遠くへ出かけるよりも、自分の部屋や近所で過ごすのが大好きな作家・越智月子さん。そんな彼女が目覚めたのが、ホテル。非日常ではなく、暮らすように泊まる一人旅の記録を綴ったエッセイ。
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