デビュー10周年を迎えた現役医師で作家の南杏子さんの最新刊『沈黙の患者』は、「高齢化社会×犯罪未満」を描く、心理サスペンス。
当たり前の日常を生きていたのに、ちょっとした弾みで小さな事件に巻き込まれていく……。決して他人ごとではない物語を、あらすじと抜粋でご紹介します。

「シル専の女」
79歳の父に58歳の「恋人」ができた。父が騙されているのではないかと疑うアラフィフ独身姉妹の美穂と江里。恋人・淳子の入れ知恵で父が通院もせず降圧剤を飲んでいないことなどを知り、二人を無理やり別れさせる。しかし、父はそれを境に生きがいを失い、みるみる体調を崩してしまった。江里はこんなことなら認めればよかったと嘆くが……。
「お父さん、説明してよ」
もっと穏やかな言い方もあっただろう。なのに、自分でも驚くほど強い調子になってしまった。女の予想外の容姿と、エルメスの手提げ袋と銀行の封筒、それに母の味とはまったく異なる味噌汁を前にしたせいだ。江里がぎょっとしたように私を見たが、勢いは収まらなかった。
「その人と、どういう関係なの?」
土曜日の朝、私は三鷹駅の南口で妹の江里と落ち合った。八月の終わりにもかかわらず、日差しは容赦がない。日傘をさしているのに、アスファルトから照り返された熱で蒸し焼きにされている気分だった。
「朝の八時に予告なしで押しかけるって、お父さんに悪いかな」
そう言いながらも、「電話をしてからでは意味がない」という江里の言い分に逆らう気はなかった。
江里は、橋口さんからいろいろ聞かされているらしいから、正しい判断だと思う。ただ私は、高齢の父にいきなり「恋人」の件を問いただして戸惑わせるのは気の毒な気がしたのだ。
「実家なんだから、遠慮することないでしょ」
江里はきっぱりと言った。子どものころから、妹は妙に肝が据わっている。こういう場面でおろおろする私とは大違いだ。
駅前のロータリーを抜け、緑あふれる玉川上水沿いの道をしばらく歩く。いつもはのんびりと楽しい気分になれる道のりだが、今日ばかりは違った。
「確かこのあたりで、太宰治が愛人と川に身投げしたんだよね。今にして思えばさ、ウチの近所ってなんだか気色悪い場所だったね」
江里がおかしなことを言い出す。思いもよらぬ事態に混乱しているのだろう。それは私も同じだ。ダンディーな無頼派作家には似ても似つかぬ父、母と私たち姉妹に気持ちを向けるだけで精一杯だったはずの不器用な父に、新しい恋人とは──。
まとまりのないことをしゃべりながら歩いていると、父が一人で暮らす築四十年の一戸建てがもう見えてきてしまった。久しぶりに見る実家は、すっかりくすんでいた。外壁のモルタルはひび割れ、軒先のトタンは色あせて赤茶けていた。
傷みが目立つ玄関の引き戸を開ける。いつものように、カギはかかっていなかった。かすかにかび臭い、けれどどこか懐かしい香りが鼻をつく。捨てられない物であふれているからだろう。父は整理整頓が苦手だ。若いころも、雑然とした工場で、部品の散らかった作業机に向かうのが常だった。
「お父さーん、ただいまー!」
江里は靴を脱ぐなり、ズンズンと上がり込んでいった。あわてて追いかけると、居間の襖 ふすまを開け放した江里が、呆然とした様子で立ち止まっていた。
江里の後ろから部屋の中をうかがう。床の間を占拠していた段ボール箱などは消え、長年使っていない足踏みミシンも、ぶら下がり健康器も扇風機もなくなっていた。
きれいに片づいた室内の中央に、大きな座卓が整然と置かれている。
「なに……これ。旅館みたい」
そこは、見慣れた六畳間ではなかった。
座卓には花柄のランチョンマットが二枚敷かれ、その上に、湯気の立つ味噌汁と、出汁の香りをまとった卵焼きが並べられていた。箸はきちんと箸置きに置かれ、茶碗は伏せて並んでいる。
「誰か、いるね……」
この家に、知らない人が入り込んでいる──八年前の冬、母を看取ったあの日から、私と江里で守ってきたこの家に。朝のアポなし訪問は、狙い通り以上だった。
奥の台所から足音がして、父が現れた。
「おお、美穂に江里か。何だ連絡もなしに。朝飯は、もう食ったのか?」
妙に声が弾んでいる。顔はてかてかと光っており、背筋も伸びていた。
数か月前、腰をさすりながら弱々しい声で、「腰痛と肩こりは、どうにもならん……何かいいクスリはないか」などと愚痴をこぼしていた父とは別人だった。
いつの間にか、父の後ろにエプロン姿の女性が立っていた。
黒髪は肩に沿うように落ち、白い肌に淡い化粧がよく映えている。大きな瞳の彼女と目が合って、ドキリとした。美しすぎて、どこか人工的にさえ感じられる。私と同年代とは聞いていたのだが。
「はじめまして、斉田純子です。いつも茂さんにはお世話になっています」
女は笑顔で挨拶してきた。やわらかく、優しい声に、思わず心を許しそうになる。だが、手土産の豆煎餅と湿布薬を入れた袋を部屋の隅に置こうとしたとき、言いようのない違和感を覚えた。
そこに、ブランドの手提げ袋が置かれていたからだ。エルメスのロゴ。父がそんな店を知っているはずはない。そのオレンジ色の紙袋は、畳の上で強烈な光を放っていた。
「一緒に味噌汁だけでもどうだ? うまくて、びっくりするぞ」
父はそう言うと、椀に口をつけてすすった。
「純ちゃんに出汁の取り方を教わったんだ。鰹節と昆布が八対二でな……」
料理に興味のなかった父が、上機嫌で料理について語っている。以前は赤味噌と白味噌の違いにも無頓着だったくせに。
「お父さん、その調子なら、あっという間にコックさんになれるんじゃない?」
苦笑した江里が、父を持ち上げるように言った。
「ははは、まるで絵描き歌だな。とにかく学ぶことは楽しいよ。まだまだ成長期だな」
後期高齢者の成長期か──。そういう気分で父が味噌汁の出汁の取り方ばかりか、「エルメス」やら何やらをも学んでいるのかと思うと、笑えなかった。他にも純子に何か見せられたり、耳元でささやかれたりしていることがあるのではないのか。今こそ、私がしっかりしなければ。
ふと、純子のエプロンのポケットから、緑色の封筒が顔を見せているのに気づいた。あれは銀行の封筒だ。ATMでお金をおろしてきたのか。いったい誰のカードを使って──。
「よかったらお召し上がりください、ね」
純子に声をかけられ、私はあわてて封筒から目をそらす。味噌汁の椀を両手で持つと、上澄みがひどく揺れており、自分の手が細かく震えているのだと気づいた。さいの目に刻まれた小さな豆腐をつまもうとしたが、思うように指が動かず、箸からつるりと逃げるばかりだ。
食べるのをあきらめ、顔を上げた。再び純子と目が合った。その瞬間、彼女はパッと晴れやかな笑顔を見せた。突然やってきた失礼な娘たちに、なぜそんな表情ができるのか。そして、どういうつもりでここにいるのか──。彼女の考えていることが読めない。
私は箸を置き、父と純子に向き直った。あいまいなままで終わらせるわけにはいかない。
「お父さん、説明してよ」
もっと穏やかな言い方もあっただろう。なのに、自分でも驚くほど強い調子になってしまった。女の予想外の容姿と、エルメスの手提げ袋と銀行の封筒、それに母の味とはまったく異なる味噌汁を前にしたせいだ。江里がぎょっとしたように私を見たが、勢いは収まらなかった。
「その人と、どういう関係なの?」
沈黙の患者

「あのまま、一人で焼け死んだくれたら……」高齢化社会に潜む“犯罪未満”の出来事に心揺れる人々を綴る、傑作心理サスペンス。デビュー10周年を迎えた現役医師で作家の新境地!
決して他人ごとではない、日常を蝕む5篇の物語
知人に唆されて「認知症の母」をレンタルして、介護保険を騙し取ってしまった独身中年の娘。――「沈黙の患者」
子ども食堂に“他人の孫”を連れてきて、甲斐甲斐しく世話を焼く老爺に疑問を持つ女性スタッフ。――「夕方の善意」
年老いた父親が若い女性と付き合っていると知って、無理やり別れさせようとする中年姉妹。――「シル専の女」











