デビュー10周年を迎えた現役医師で作家の南杏子さんの最新刊『沈黙の患者』は、「高齢化社会×犯罪未満」を描く、心理サスペンス。
当たり前の日常を生きていたのに、ちょっとした弾みで小さな事件に巻き込まれていく……。決して他人ごとではない物語を、あらすじと抜粋でご紹介します。

「ニセの語り部」
『わたしたちの戦争を語り継ぐ会』のスタッフ・早苗は、88歳の語り部・兵頭の“語り”に感動して涙し、その語りを広めようとする。しかし兵頭は年齢を高く偽っている、彼の記憶は借り物ではないか、という噂が流れる。早苗は必死に彼を庇おうとするが、SNSでの攻撃が始まってしまう。
《今日の語り部、すごかった。
兵頭丈夫さん(88歳)の話。
銃剣で突き刺された母親を前に、「もう一度だけ、自分を見てほしかった」って。
心が震えた。会場全体も、静まり返っていた。終戦直後、樺太での体験。
信じられない出来事が、あの戦争ではあった──それが真実。変じゃない。
#戦争を語り継ぐ会 #戦争の記憶》
* * *
「町の至る所に死体が転がっていました。倒れている人だけでなく、壁にもたれかかるようにして息絶えた人もいれば、座ったまま死んでいる人も。やがて、血だらけの屍 しかばね とか、頭が吹き飛んだ死体を見ても何も感じなくなり、ただただ私は、前を行く兄たちに追いつかなければということだけを考えて走りました」
樺太の真岡町を襲ったソ連軍の上陸、そして住民の殺 さつ戮りく──兵頭さんのか細い体から吐き出される話は、悲惨の一言だった。そんなひどいことが本当にあったのか、二度とそんなことがあってはいけない、という思いが高まる。
会場は静まり返っていた。誰一人、口を開く者はいない。
「夜になって家に戻ると、母は二階の部屋で伏せていました。父の遺体を抱きかかえるような姿で。銃剣で突き刺されたようで、割烹着には何か所も穴が開き、畳全体がどす黒い血で染まっていました。『母ちゃん』と、動かない母にしがみついて、何度も呼びかけました。もう一度だけ、自分を見てほしかった。……これが、あの八月下旬にあった、私たちの戦争です」
人は戦争に対して何を思い、何をどうなすべきなのか──兵頭さんは、そうした高みからの問いかけを一切せず、最愛の父と母を一度に失った生々しい記憶だけで一時間余りの講演を終えた。
満場の拍手が鳴りやまない。これは本物だ、と思った。胸が熱くなり、涙が止まらない。
司会者なのに、私は声を詰まらせてしまい、講演者と来場者に短く謝意を伝えて閉会を宣言するのがやっとだった。
継ぐ会の丸山会長とともに兵頭さんを見送り、会場の撤収を始めたときだった。ロビーに並べた旧陸軍の写真パネルを片づけていると、若い男性が私に声をかけてきた。
「すみません、司会の方ですよね? あの兵頭さんって人の話、ちょっと変だと思ったんですが……」
すぐには意味が分からなかった。
「変、ですか?」
「はい。僕、大学院で戦史研究をしているんですけど。あの話の、時間とか状況とかが、微妙に合わない気がするんです」
「はあ……」
語りの細かい点をつついて揚げ足取りをされても困る。そのまま受け流そうとすると、男性はさらに強い口調で付け加えてきた。
「ソ連軍の北太平洋艦隊による上陸作戦は早朝に始まりました。しかも、作戦に潜水艦は使用していないはずです。それに、当時の潜水艦から陸上に向けた銃撃とか機銃掃射というのは、ちょっと無理があります」
兵頭さんは……港に潜水艦が集結したと明言していた。
「それと、真岡に上陸したソ連兵が持っていた武器は自動小銃と手榴弾が主で、銃剣は使っていないと思います。とにかく手当たり次第に銃を乱射し、防空壕を見つけると手榴弾を投げ込んだ、という証言ばかりで、銃剣で住民を殺したという記録は僕自身、読んだことがないんです」
それは、研究不足なのではないか? 現に、体験者の兵頭さんの母親も銃剣で刺されて命を落としたと話していたではないか。
「そうですか……。もしかしたら、ちょっとした言い間違いかもしれませんね。なにぶん、語り部の方もご高齢ですから」
私は、あいまいに笑った。どう考えても実際に体験した者の方が正しいはずだ。
「まあ、そうかもしれませんけど」
彼はそれ以上、何も言わずに去っていった。
しばらくして、じりじりと怒りがこみあげてきた。あれほど感動的な話に言いがかりをつけられ、反論しきれなかった自分に対して。せめてこれだけは、あの男性に言ってやるべきだった。あなたは、兵頭丈夫さんの語りの意義と価値をおとしめようというのですか、と。
──あの兵頭さんって人の話、ちょっと変だと思ったんですが……。時間とか状況とかが、ニセの語り部微妙に合わない気がするんです。
軍事オタクのくだらない難癖だとは思いつつも、男性の言葉は心に残ってしまった。
いらだちを抱えたまま、私は何となくスマホを手にし、黒地に白抜きのXのアイコンをタップした。
継ぐ会はSNS上で公式の発信をしていない。会のホームページはあるにはあるが、ほとんど更新をしておらず、広報はチラシと市報への掲載に頼っている。なので、開いたのは私の個人アカウントだ。フォロワーは二百人ほど。ほとんどが昔の教え子や同僚、趣味仲間だ。
誰かに届けたいというより、自分の気持ちを整理するように指を動かした。
《今日の語り部、すごかった。
兵頭丈夫さん(88歳)の話。
銃剣で突き刺された母親を前に、「もう一度だけ、自分を見てほしかった」って。
心が震えた。会場全体も、静まり返っていた。終戦直後、樺太での体験。
信じられない出来事が、あの戦争ではあった──それが真実。変じゃない。
#戦争を語り継ぐ会 #戦争の記憶》
投稿ボタンを押すと、画面が小さく光った。
いいねが三つ、リポストが一つ。よし、と思う。あの大学院生の無礼な言葉を少しだけ押し返せた気がした。
沈黙の患者

「あのまま、一人で焼け死んだくれたら……」高齢化社会に潜む“犯罪未満”の出来事に心揺れる人々を綴る、傑作心理サスペンス。デビュー10周年を迎えた現役医師で作家の新境地!
決して他人ごとではない、日常を蝕む5篇の物語
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