デビュー10周年を迎えた現役医師で作家の南杏子さんの最新刊『沈黙の患者』は、「高齢化社会×犯罪未満」を描く、心理サスペンス。
当たり前の日常を生きていたのに、ちょっとした弾みで小さな事件に巻き込まれていく……。決して他人ごとではない物語を、あらすじと抜粋でご紹介します。

「夕暮れの善意」
子ども食堂のボランティア・春菜は、ある日訪れた老人・寺尾と“孫”メグの仲睦まじさに心温まるものを感じた。しかし、寺尾は見ず知らずの少女を連れてきているのではと疑惑が持ち上がる。面倒ごとに巻き込まれたくない春菜はスルーしようとするが、彼の家を訪ねた際、不審なアルバムを見つけてしまう。
「サキ!」
母親は女の子を抱き締め、何度も背中をさすった。
「……どうしてここに来たの?」
サキちゃんは目をぱちぱちさせながら小さな声で答えた。
「おじいちゃんが……ごはんを食べようって……」
冬休みの直前、とりわけにぎやかな日だった。早くから子どもたちが集まり、おしゃべりや笑い声が絶えない。それにスタッフが調理器具を扱う音などがミックスされ、集会室はずいぶんと騒々しかった。
「春菜さん、これ見て!」
紙コップと色紙で作ったサンタクロースの置物を治樹君が見せてくれる。
「僕ね、通知表に5があったんだよ!」
颯太君も、得意げに報告してくれる。
そんな子どもたちに交じって、一人だけ椅子に座ってうつむいている小さな女の子がいた。
見覚えがない。新しい子のようだ。小学校低学年くらいか。髪はおかっぱで、きちんとしたジャケットを着ている。さっき受付を外した間に、佐久間さんか梶さんが席に案内してくれたようだ。
私はそっと近づいた。
「大丈夫? お名前、教えてくれる?」
女の子は、目だけでこちらを見る。
「……サキ」
「サキちゃん。教えてくれてありがとう。私は春菜おばさんよ。はじめまして。お腹すいた?」
「はい」
その声には、少し震えが混じっていた。見知らぬ風景に戸惑っている様子だ。
誰と来たのだろうと思った直後、寺尾さんが背後に立っているのに気づいた。
「公園で遊んでいたら、泣かれちゃいましてね。お腹がすいたって言うから、連れてきました」
え? と意外に思ったまま、私は尋ねた。
「今日、メグちゃんは?」
「家にいます」
私は反射的にサキちゃんを見る。彼女は寺尾さんの顔をにらみつけるように見ていた。
一瞬、小さな違和感が生まれた。だが、特に利用者の多い日の、しかも一番忙しい時間帯に、二人だけを気にし続けることはできなかった。
食堂の終了時刻が近づき、次々と子どもたちが帰っていく。最後の一人が帰り、ドアの前に置いた立て看板を取りに出たとき、子どもが一人、入り口横の花壇の縁に座っているのを見つけた。
サキちゃんだった。周囲を見回したが、寺尾さんの姿はない。
「おじいちゃんは?」
そう尋ねても、サキちゃんは首を横に振るばかりで何も答えなかった。
外は寒いからと、室内に入るように促す。驚いた佐久間さんが、利用申込書を取り出して名前を捜した。だが、不思議なことに、寺尾さんの名が記された申込書は見つからない。
「おかしいな──ないぞ」
「ちょっと、貸してみてください」
今度は保護者名でなく子どもの名を記した欄に注意を向けて、私が申込書を一枚ずつめくり直した。
子どもの字で氏名を記した申込書が、中ほどで見つかった。
〈こばやし さき〉
きっと、これだ。この日の利用者で、「サキ」という名の子はその子一人しかいなかった。
保護者の名は空欄だった。電話番号の欄には、携帯電話の番号が薄い文字で書かれている。
寺尾さんと同じ姓ではない。寺尾さんの娘の姓が小林なのだろうか? そんなことを思いながらホームの電話を借りて番号をコールした。
電話はすぐにつながった。
「え? 娘はそんな所にいるんですか? 家で留守番していたはずなのに……」
電話口の女性は、明らかに当惑していた。こども食堂に来たことを知らなかったようだ。
自宅は東小金井にあるという。こども食堂のある吉祥寺から三駅も離れている。
「失礼ですが、寺尾さんとのご関係は?」と問いただそうとして、私は言葉をのみ込む。そんなことを尋ねても母親を混乱させるだけかもしれないと思ったからだ。
「安全な場所でお預かりしていますので、ご心配いりません。お迎えをお願いしたいのですが、場所は……」
どういうことだろう。受話器を持つ手が少し震えていた。
四十分ほどして母親が駆け込んできた。スーパーの店名を記した名札が胸ポケットの上で揺れている。
「サキ!」
母親は女の子を抱き締め、何度も背中をさすった。
「……どうしてここに来たの?」
サキちゃんは目をぱちぱちさせながら小さな声で答えた。
「おじいちゃんが……ごはんを食べようって……」
母親は顔を上げ、私を見た。
「おじいちゃんって、こちらのスタッフさんですか?」
「えっと……その」
私の脳裏に、寺尾さんとのやり取りがよみがえる。
公園で遊んでいたら、泣かれちゃいましてね。お腹がすいたって言うから、連れてきました──。
本当だったのだろうか。心臓の音が強く感じられる。
「おそらくは、ご近所のお年寄りの親切だと思うのですが……」
私はそう言って、サキちゃんに尋ねた。
「サキちゃん、公園で泣いていたの? それって、どこの公園かな?」
母親に抱きついたまま、女の子は首を横に振った。
「泣いてない!」
きっぱりとした声は、嘘には思えなかった。ならば寺尾さんが言っていたのが嘘だったのか。それとも母親の前で正直に言えないだけなのか。
もしかすると、サキちゃんはメグちゃんの友だちで、寺尾さんの方はサキちゃんのことを
よく知っている──という線も考えられる。
「じゃあ、一緒に来たのは、お友だちのおじいちゃん?」
「……知らないおじいちゃん」
空気が凍りついた。梶さんが厳しい表情で視線を送って来る。私も息苦しいばかりで、言葉が出ない。
「知らない人に、サキが……」
声を震わせつつ、母親が娘を抱きかかえる。
寺尾さんは、いったいなぜ……。私は、心が冷たくなるのを感じた。
「まずは事実関係を調べさせてください」
周囲に聞き取りをしてサキちゃんが来所に至った経緯など、分かったことがあれば報告する──と佐久間さんが母親に約束する。
サキちゃん親子が帰ったあと、食堂の後片づけの手がなかなか進まなかった。鍋を洗う音も、皿の触れ合う音も、すべてが遠くに感じられる。
沈黙の患者

「あのまま、一人で焼け死んだくれたら……」高齢化社会に潜む“犯罪未満”の出来事に心揺れる人々を綴る、傑作心理サスペンス。デビュー10周年を迎えた現役医師で作家の新境地!
決して他人ごとではない、日常を蝕む5篇の物語
知人に唆されて「認知症の母」をレンタルして、介護保険を騙し取ってしまった独身中年の娘。――「沈黙の患者」
子ども食堂に“他人の孫”を連れてきて、甲斐甲斐しく世話を焼く老爺に疑問を持つ女性スタッフ。――「夕方の善意」
年老いた父親が若い女性と付き合っていると知って、無理やり別れさせようとする中年姉妹。――「シル専の女」











